マタイ7:1~6
【誰に対して語られた言葉か】
最初に確認しておきたいのは、今日の箇所は、イエスに助けを求めて集まった群衆に対してではなく、その中に紛れてイエスを監視していた当時の宗教的エリートたちに対して語られた言葉だ、ということです。
貧困、飢餓、病気、障害、差別…ありとあらゆる苦しみを背負い、それらから解放してほしくてイエスにすがった人々ではなく、ユダヤ教の指導者や学者たちをイエスは「偽善者」(5節)、「犬」「豚」(6節)と呼んで、厳しく批判したのが、今日の箇所なのです。
【目の中に丸太】
そういうとは別に、単なる諺として読めば、
「他人の目の中の大鋸屑を取り除きたいのなら、まず自分の目の中の丸太から」(1~5節)
は、日本の諺でいう「目くそ、鼻くそを笑う」とか「五十歩百歩」、さらに「人の振り見て我が振り直せ」などと同じ、
「お互い大したことない者同士、嘲ったり批判したり裁き合うのは恥ずかしいですよ、止めましょうね」といった意味でしょうか。
まあ、丸太が目の中に入ってたらめちゃくちゃ痛いやろな…とは思います。
丸太が邪魔で前も見えへんやろし…
にも関わらず他人の大鋸屑は気になる…
取り除いてやろうとお節介を焼く…
自分の至らなさを棚に上げて他人の批判ばかりしてる愚…。
【豚に真珠】
では、そういう自分を恥ずかしく思い、裁き合うのはやめにして、
お互い、与えあい、補いあい、支え合うようにしよう!と、私たちは思うのですが、
それもまたなかなか上手くいきません。
「豚に真珠」(6節)の譬えです。
価値が分からないものに、それを与えても喜んではもらえない。
ひどい時には、欲しがっているものを与えてもらえなかった相手の怒りを買うことも…。
という意味です。
私たちは他人に対して、自分を受け入れてほしいといつも思っています。
それも自分が望むような形で受け入れてほしいと思っています。
だから、望む形で受け入れられなければ苛立ち、腹が立ち、
時には折角手を差し伸べてくれてる相手に噛み付いたりします。
逆に自分が思うようなやり方で与えよう支えようと固執して、
それを受け入れてもらえず苛立ち、腹を立て、攻撃することもあります。
【天国に近いのは誰か】
イエスの言葉を諺的に読むと、こんな風にも解釈できるのですが、
実はイエスが一番いいたかったのは「天国に近いのは誰か」ということです。
「神聖なものを犬に与えてはならない」(6節)とイエスはいっています。
犬とは「自分たちこそ天国に真っ先に入れる!」と高をくくり、貧しい人々を見下し、利権を貪り、威張り散らしていた祭司や学者たちのこと。
彼らが本当に求めていたのは、自分の利益であり、この世の名声や富。
そんな彼らに「天国」を与えても喜んではもらえない。
欲しがっているものと違うものを与えられて逆ギレされるのがオチだ、という痛烈な皮肉です。
一番天国に近いように見える祭司や学者が実は一番遠い。
逆に、貧しく、飢え、病み、差別され、孤独のうちに死んでいくしかないような、そんなあなた方こそが、一番天国に近い。
そうイエスはいってくれているのです。
目くそ鼻くそみたいな私たちですが、だからこそ天国に近い、といってもらってるって、
何だか嬉しいですよね!!
【誰に対して語られた言葉か】
最初に確認しておきたいのは、今日の箇所は、イエスに助けを求めて集まった群衆に対してではなく、その中に紛れてイエスを監視していた当時の宗教的エリートたちに対して語られた言葉だ、ということです。
貧困、飢餓、病気、障害、差別…ありとあらゆる苦しみを背負い、それらから解放してほしくてイエスにすがった人々ではなく、ユダヤ教の指導者や学者たちをイエスは「偽善者」(5節)、「犬」「豚」(6節)と呼んで、厳しく批判したのが、今日の箇所なのです。
【目の中に丸太】
そういうとは別に、単なる諺として読めば、
「他人の目の中の大鋸屑を取り除きたいのなら、まず自分の目の中の丸太から」(1~5節)
は、日本の諺でいう「目くそ、鼻くそを笑う」とか「五十歩百歩」、さらに「人の振り見て我が振り直せ」などと同じ、
「お互い大したことない者同士、嘲ったり批判したり裁き合うのは恥ずかしいですよ、止めましょうね」といった意味でしょうか。
まあ、丸太が目の中に入ってたらめちゃくちゃ痛いやろな…とは思います。
丸太が邪魔で前も見えへんやろし…
にも関わらず他人の大鋸屑は気になる…
取り除いてやろうとお節介を焼く…
自分の至らなさを棚に上げて他人の批判ばかりしてる愚…。
【豚に真珠】
では、そういう自分を恥ずかしく思い、裁き合うのはやめにして、
お互い、与えあい、補いあい、支え合うようにしよう!と、私たちは思うのですが、
それもまたなかなか上手くいきません。
「豚に真珠」(6節)の譬えです。
価値が分からないものに、それを与えても喜んではもらえない。
ひどい時には、欲しがっているものを与えてもらえなかった相手の怒りを買うことも…。
という意味です。
私たちは他人に対して、自分を受け入れてほしいといつも思っています。
それも自分が望むような形で受け入れてほしいと思っています。
だから、望む形で受け入れられなければ苛立ち、腹が立ち、
時には折角手を差し伸べてくれてる相手に噛み付いたりします。
逆に自分が思うようなやり方で与えよう支えようと固執して、
それを受け入れてもらえず苛立ち、腹を立て、攻撃することもあります。
【天国に近いのは誰か】
イエスの言葉を諺的に読むと、こんな風にも解釈できるのですが、
実はイエスが一番いいたかったのは「天国に近いのは誰か」ということです。
「神聖なものを犬に与えてはならない」(6節)とイエスはいっています。
犬とは「自分たちこそ天国に真っ先に入れる!」と高をくくり、貧しい人々を見下し、利権を貪り、威張り散らしていた祭司や学者たちのこと。
彼らが本当に求めていたのは、自分の利益であり、この世の名声や富。
そんな彼らに「天国」を与えても喜んではもらえない。
欲しがっているものと違うものを与えられて逆ギレされるのがオチだ、という痛烈な皮肉です。
一番天国に近いように見える祭司や学者が実は一番遠い。
逆に、貧しく、飢え、病み、差別され、孤独のうちに死んでいくしかないような、そんなあなた方こそが、一番天国に近い。
そうイエスはいってくれているのです。
目くそ鼻くそみたいな私たちですが、だからこそ天国に近い、といってもらってるって、
何だか嬉しいですよね!!