マタイ6:25~34



【離島で暮らす全裸の老人】

よくあるヤラセ番組だったのかも知れないが、
TVで沖縄の離島で独りで暮らす全裸の老人をルポしていた。
飲み水は雨水だけ。
食材は釣った魚。
燃料は流木。
頭に手ぬぐいを巻いている以外はすっぽんぽんの70歳くらいの男性だった。
ラジオで台風情報を確認していたり、米を炊いていたり、その人が住んでいるのに「無人島」と称したりで、かなり胡散臭い番組だったが、
私はふと、今日の箇所を思い出していた。

「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分だ」(6:34)

明日食べるもの、明日着るもの、について悩んでいないけれど、
今日生き延びるために彼は必死のように見えた。
イエスが例に挙げた「空の鳥」や「野の花」のように、明日を思い煩うことなく、ただただ今を懸命に生きているように見えた。



【ケセラセラではない】

こういう暮らしぶりを見て、「ケセラセラ(なるようになる)ですね」という人がいるが、それは違うと思う。
イエスがいっている「明日を思い煩わない」ということは、「明日はどうなるか分からないから心配しても仕方がない。なるようにしかならないんだ。」という投げやりな意味ではない。

イエスの言葉、行動の根底にあるのは5:48の「あなた方も天の父のように完全なものになるだろう」という約束だからだ。

どんな辛い現実に直面していても、暗い未来像しか持てないような状況でも、
イエスは「明日はきっといい日だ」といっている。

あなたが生きている今日からは到底思い描くことが出来ないかもしれないが、あなたの明日は今日よりいい。
あなたの未来は今日より明るい。
とイエスは信じて止まない。



【本当にそうであるために】

とはいえ、私たちは恐怖と不安をいつも抱えて生きている。

たとえば、十分な貯えがないまま、介護や看護の必要な家族を抱え、減り続ける預金残高を見てはため息をつく人が、この国には溢れている。
十分な収入と貯えがあったとしても、いつ病気になるかも分からないし、事故や犯罪に巻き込まれて死んでしまうかも知れない。
突然精神のバランスを崩し、自分が犯罪に走るかも知れない。

自分と周囲に対する不安や恐怖から逃れるために依存症に陥る人もまた後を絶たない。
自殺者は1998年以降年間3万人を超えている。
自殺の理由は「健康問題」(40%)、「経済・生活問題」(30%)、「家庭問題」(10%)が全体の80%を占めている。

国民年金だけを頼りに暮らす老老介護の夫婦に
生活再建の目途が全く立たず仮設住宅での生活を続ける被災地の家族に
難病の子どもの医療費を支払うためにパートに追われているシングルマザーに
イエスが約束する「明るい未来」は、本当にあるのか?!と問い質したくなる。

2000年前のパレスチナでも
自分を囲んだ群衆や弟子たちから、イエスは同じ問いを投げかけられたに違いない。

「空の鳥だから、野の花だから、思い煩わずに生きていけるけれど、人間である我々にはそれは無理ですよ、先生!」と。



【神の国とその義】

この、血を吐くような問いに対してイエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(6:33)と答えた。

「神の国」とは「神による完全なる支配」という意味だ。
「神の義」とは「神の正義」ということだ。

明日の生活に困窮している我々に対してイエスは、「思い煩うな」とセットで「神の支配と正しさ」を求めろ、というのだ。

ほんとに、もお、イエスはいつも腹の足しにならないことばかり言う!
確かにその通りだろう。
この不条理な、悪者ばかりが得をして、正直者が馬鹿をみるようなこの世が、
神によって完全に支配され、神様の正しさが徹底されるなら、
きっと明日はいい日になるだろう。

けれども、そんな日がほんとに来るなんて信じられないし
そんな日が来ることを待ってる間に、我々は無念のうちに死んでいくしかない!



【小さな種は我々の中にある】

イエスは社会運動家だった、という研究者がいる。
差別に満ちた当時のパレスチナ社会で、虐げられていた人たちに対する福祉活動を行っていたのは事実だろう。

2匹の魚と5つのパンで数千人を満腹にさせた、という逸話があるけれど、
それは、数千人分の食料を提供した富裕層がイエスの仲間にいた、ということだ。

神の完全な支配、神の正義の遂行。
イエスが語るその夢に共感し、それを実現させようとした人が大勢いたに違いない。

イエスはきっと、人々の中にある(我々の中にもある)小さな種を見つめて、「思い煩うな」「神の支配と正義を求めよ」と語ったのだ。

その小さな種とは「祈り、行動し、変えていく力」だ。
我々の中には恐怖と不安に満ち満ちた現実を明るく希望に満ちた未来に変えていく力があるのだ。
誰かがやってくれるのではない、ケセラセラではない、「明日をきっといい日」にする力は我々の中にあるのだ。

絶望の中にあっても
恐怖と不安の中にあっても
いや、そんな現実の只中に生きているからこそ、
自分の中に備えられた種の力を信じたい。