マタイ6:19~21



【富(宝物)への執着】

あ~、ほんと、その通りだ、と思う。

「あなたの富(宝物)のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(21節)というイエスの言葉。

大金や高価な貴金属を家に隠している人は、留守中それらが盗まれないか気が気ではない。
恋愛中の我々は、彼氏や彼女がいまどこで何をしているか、気が気でなくなる。
子どもたちは、圧倒的に自分を受け入れてくれている母が自分の留守中にどこかにいってしまうのではないか、という不安に苛まれる。

そういえば、亡くなった私の叔父は、好きになった女性を自分だけのものにしないでは気が済まない人だった。
その性癖のために家族や身内は随分苦労させられた。
この叔父は90歳の時転倒し、脚を傷めたため老健施設に入所した。
そして入所したその日に、利用者の女性に一目惚れし、その女性を巡って他の利用者(男性)と殴り合いの大喧嘩になった。

叔父だけではない。
財産、異性、地位、名誉、自分の能力などなど、私たちは自分の宝物を手放すことが出来ない。
ずっと自分だけのものにしておきたい。
そして、宝物に執着するあまり、それが虫に食われたり、錆びついたり、盗まれたりすることが耐えられないのだ。


【富を天に積む、とは】

そんな我々にイエスはいう

「富は、天に積みなさい」(20節)と。
天国に積んでおけば、虫が食うことも、錆びつくことも、泥棒が侵入し、盗み出すこともないからだと。

では、この言葉通り、天国に宝物を積んでおけるのかというと、それは無理な話だろう。

我々は、財宝を天国に持っていけるだろうか?
愛する人を天国に連れて行けるだろうか?

自分の地位や名誉を持って行けるだろうか?

自分に備えられた能力を天国に預けておけるだろうか?

すべて答えは「NO!」だ。

イエスは「富は、天に積みなさい」というが、そんなことは無理なのだ。
我々は宝物への執着から逃れられず悶々と生き、悶々と死んでいくしかないのだ。



【死んでも持って行けるもの】


所詮「富」への執着から逃れられない我々が、天に「富」を積むためには何をすればいいのか。
それは「死んでも持って行けるもの」に心を寄せる、ということだろう。

では、「死んでも持って行けるもの」とは何か。
それは一言でいうと「魂」のことだ。
我々は魂に思いを馳せ、魂に心を寄せ、魂を大切にする時、この世の「富」から解放されるのだ。

では、魂とは何か。
それは、神様が我々一人一人に与えてくださった命であり、使命のことだ。
私が、あなたが、この世に生かされている理由であり「存在証明」だ。

我々は死んでこの世に別れを告げるとき、ただ神様から頂いた命という唯一無二の「富」(宝物)を、天にお返しにいくだけだ。