マタイ6:9~15



【祈れない時のための祈り】


イエスの周りに集まっているのは、生きることに疲れ果てた人たち。
腹を空かせ、病み、コミュニティから隔離され、希望を絶たれた人たち。

苦しくて苦しくて、祈る言葉も見つからない。
諦めの果てに、祈る気にもならない。

そんな群衆のために
イエスは「祈れない時にはこう祈りなさい」と祈りの言葉を教えてくれた。

***********************************
9節
天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。

10節
御国が来ますように。
御心が行われますように、天におけるように地の上にも。

11節
私たちに必要な糧を今日与えて下さい。

12節
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。

13節
わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください。
***********************************

いわゆる「主の祈」と呼ばれるこれらの文言だ。
私もそうだが、クリスチャンホームに生まれ育った人であれば、幼い頃から何千回何万回も唱え、慣れ親しんできたはずだ。



【赦す気になれない】


しかし、私には、この中で、小さな時からずっと、未だに受け容れられない文言がある。
それは12節だ。

ここでいう「負い目」とは神に対する負債つまり宗教的な「罪」を指している。
神さまが望むことに背くような思い・言動のことだ。
私たちは日々、神さまが望むような生き方から遠い。
けれども私たちは死んだあと天国に行きたい、地獄の火で永遠に焼かれ続けるなんてイヤだ。
だから切実に祈るのだ。
「罪を赦して下さい」と。

しかしそう祈るためには前提として
「私に対して負い目のある者を赦す」ということがなくてはならないのだ。
平たくいえば、敵を赦し、敵を受け容れ、敵の幸せを祈る、ということしなければ、
神さまに向かって「私の罪を赦してくれ!」とはいえないのだ。

これは、少なくとも私にはとても難しい。
敵を心理的に追い詰め、敵に対して優位に立つために、敵に聞こえるように敵を赦し・受け容れ・幸せを祈る、ということはあるかもしれないが、
「イエスはこいつのためにだけは命を捧げてない!捧げていてほしくない!」と思える人間がいるのだ。

敢えて不幸になればいいとは思わないけれど、たとえば世界中で戦争を起こし稼ぎまくるアメリカの指導者たちを、私は受け容れることは出来ない。
原発事故を起こしたにもかかわらずその責任をとらず、補償もせず、自分たちの利益だけは確保し続ける東電の役員や高級官僚たちを、私は赦すことが出来ない。


【チームの一員になる】

私はいま、ずっと一緒にやってきた森の仲間たちと一緒に、
大阪市内で「発達障がい支援及び放課後等デイサービス」事業を開始する準備をしている。

サービスの対象となるのは主に、コミュニケーションに難しさを抱える子どもたちだ。
将来的には、アスペルガーだのADHAだのといったレッテルを貼られている子どもたちにぜひとも私たちの事業所でスタッフとして働いてもらいたいと願っている。

以前の私なら、サービスの受益者と提供者との間だに、無意識に、当たり前のように線を引いていた。
受益者が提供者になれるなどとは考えられなかった。

しかし、ここ数年、ああそれは違うな、と思うようになった。
コミュニケーションに難のある子どもたちが自分の発達的課題に自信をもって取り組むことを促すのは、実はコミュニケーションに難のある大人の方がよかったりするからだ。
アスペルガーの小学生とアスペルガーの大学生の相性が最高によかったりして、
私は「こういうのもありなんだ、というか、こういう方がいいんだ!」と思えるようになったのだ。

精神障がい、知的障がい、発達障がい…様々な理由で流暢なコミュニケーション術などとは無縁の人が、外界とどう関わったらいいか分からず混乱している子どもたちとの間に、創造的な関係を築く。
いわゆる健常のスタッフなど足元に及ばないような関係を生み出す。

実は、私がわだかまってきた「敵を赦し・受け容れ・幸せを祈る」ということは、
こういうことから始まるのではないか。
自分とはあまりにも違いすぎる人を受け容れる。
そんなことは無理だと見くびったり諦めていた人に敬意を持つ。
異質な者同士が、いままで互いに経験がないような新しい共存の形を模索する。

今まで一緒にやることなど想定もしていなかった人と一緒に
一つのチームに所属する仲間として、現場に立つ。

このことを想像するところから
敵を愛するということが始まるような気がする。