マタイ5:38~42


【肉親や仲間を殺されて黙っていられるか!!】

今日の箇所、特に『右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい』は
キリスト教の博愛主義・無抵抗主義の象徴といわれます。

これもまた、私はイエスが投げかける無理難題の一つだと思っています。

実際、私は子どもが生まれた時、ふと、しかし強烈に
「この子に危害を加えたり、命を奪う者が現れたら、そいつを生かしてはおかない!全力で殺す!」と思いました。
家族や仲間を守るためなら、そうしてしまうであろう自分が、私の中にはいます。

また、世間を見れば「三倍返しだ!」というフレーズが流行るくらい、世間では権力者にいいようにあしらわれ搾り取られている多くの国民の中に、やられたらやられただけ仕返し(復讐)してやる!という思いが潜在的に蔓延してきてる気がしています。



【復讐したら幸せか?】

映画『グリーンマイル』では、死刑囚の電気椅子による処刑場面が公開され、家族を殺された人たちがその場に押し寄せてくる、というシーンがありました。
皆、復讐を望んでいるのです。

しかし、復讐することで、私たちは本当に幸せになれるのかというと、どうもそうではないようです。

自分の息子を、金品目的で殺された一人のお母さんいます。
彼女は、その犯人である獄中の死刑囚と文通を繰り返す内に、心境が変化していった、といいます。
最初は、「こいつに命でもって償いをさせなければ、死んだあの子が浮かばれない」という思いしかなかった。
それが、文通を通してお互いの気持ちを理解するにつけ、「この人に、あの子の分まで生き抜いてほしい」と願うようになった、というのです。
このお母さんは最後には、犯人である青年について減刑を希望する嘆願書を書いておられます。

「復讐しても死んだ子は生き返らない、家族も幸せにはなれない。
そうであれば、罪を背負って、堂々と、死んだ子の分まで生き抜いてほしい。
この人が生き抜き、幸せになることが、あの子と家族に対する償いです」と。



【毎日誰かを殺しながら生きている】

ところで、私たちは毎日誰かを殺し、その亡骸を食べながら生き続けています。

もし「目には目を、歯には歯を」という応報主義が牛さんたちに適応されたらどうなるでしょう。
ハンバーガーを常食している人は、一体何回自分をミンチにして焼かれて、むしゃむしゃと食われて牛さんたちに罪を償わなければならないでしょうか。

もし、米粒さんに訴えられたら、ご飯が大好きな人は、一体何回刈り取られ、皮を剥かれ、水で洗われ、グラグラと熱湯で炊かれ、これまたむしゃむしゃと食われなければならないでしょうか。

もし、平穏に森で暮らしてきたカエルやモグラや、鳥や猪や鹿に、訴えられたら、
私たちは地面ごと家を破壊され、瓦礫や土と一緒に山奥に連れて行かれ、谷に投げ込まれ埋め立てられなければなりません。



【赦し合う以外にないのだけれど】

地球に充満するあらゆる命の中で、人間ほど傲慢なものはいないでしょう。
他者の命を奪いそれを食らい続けて、私たちは生き続けるのです。
せめて死んだら土葬か鳥葬か水葬にでもすれば、生き物たちに罪滅ぼしもできるのですが、
今や都会では燃料を焚いて、火葬にして、また空気を汚しています。

40節以下にはこうあります。
「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」
「誰かが1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい」
「求めるものには与えなさい。」
「あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」

イエスにそう命じられるまでもなく、人間以外の生き物はすべてそうやって私たちのために命を捧げてくれてるのです。

イエスの目には、私たち人間だけでなく、地上のすべての生き物たちの日常が活き活きと映っていたのではないでしょうか。

自分は人を生かすために殺される
親や兄弟もみんな殺された
子どももやがて殺される…
そんな日常を過ごす動物たちは
もう差し出す頬すら持ち合わせていないのです。

復讐を許されていない、そんな彼らの命を食らい、のうのうと生きている私たちが、
三倍返しだの、やられたらやり返すだの、ほんとに笑止千万です。

生きるために殺し続け、食らい続ける私たちが出来る償いとは何でしょうか?
そんな私たちが差し出す頬とは何のことでしょうか?