マタイ5:31~32


【結婚式での一コマ】

職業柄、結婚式の司式というものを仰せつかることがあります。
目出度い場であり、厳粛な場でありますが、緊張してる関係者が多いので色々ハプニングがありハラハラすることがあります。

司会者が「新郎新婦のご入場です。」というのを誤って「新郎妊婦のご入場です」。
で、入ってきた花嫁さんのお腹が大きくて妙に納得したり…。

新婦の介添えとして入場してきたお父さんが緊張のあまり出す足と手が同じ側になってたり…。

同じく緊張し過ぎて足がもつれたお父さんが倒れ、はずみに頭からカツラが吹っ飛び、バージンロードを先に転がっていったり…(それも長距離!)。


さて少し真面目な話。

指輪の交換の時に

キリスト教の結婚式で、新郎新婦が誓約をし指輪の交換をした後、二人を握手させた牧師が二人の手をストールでぐるぐる巻きにしこういいます。

「神が合わせたものを 人は離してはならない」

この文言の基になる間が方が、今日の箇所だと言われています。

イエスの無理難題シリーズ第三弾は、「腹を立てるな」「エロい目で他人の妻を見るな」に続いて、
「どんな理由があっても離婚はダメ!」という内容です。



【結婚の現実】

結婚生活は千差万別。
すぐに壊れる結婚もあれば、50年60年と続く結婚もある。
早期に別れたことで、元夫婦が人と人としてとても建設的な関係になれることもあれば、
離婚こそしていないけれど、信頼関係もなく尊敬しあることもなく、労り合うこともないような、荒んだ結婚生活もあります。
婚生活に忍従し続けなければならないケースもあります。

日本でもDVが社会問題になってきてますが、配偶者からの凄まじい暴力に晒され、後遺障害を負ったり殺されたりする例が後を絶ちません。。

しかし、聖書に離婚はダメ!って書いてあるからという理由で
腫れ上がるくらい殴られても結婚を解消しない
バットで足を折られても逃げ出さない
包丁で刺されそうになっても離婚しない
そんなケースがあるのです。

私は単純に、それって、ほんとにイエスが望んでることなんやろか、と思います。

理由があってもなくても、私たちは暴力から身を守り、平穏に暮らすことが許されています。
誰よりもイエスがそれを望んでおられるからです。

これを大前提として考えれば、
あらゆるDVから、私たちはまず逃げ出すべきでしょう。
法的な保護を受け、自分の心身を守り、落ち着いて暮らす道を求めるべきでしょう。


【DV加害者を救う道】

ここで、とても大きな問題が残ります。
DVの被害者が家を出た後、残された加害者はどうなるか、ということです。

暴力で近親者を支配すること以外で自分を支えることが出来ないようなクズヤローにも、
やはり魂の救いは必要なのです。

クズヤローの救いはどこにあるのか…
どうしたらこのクズヤローは救われるのか…

このテーマについて考えていたとき、京都の友人から刺激的なメッセージをもらいました。

探偵ナイトスクープの「おじいちゃんはルー大柴」というVTRをネタに、彼はこう書いていました。

失われたものを回復するために必要なのは『傾聴』だ、と。

失われたものは自分の内にも外にもあります。
特に終末期において、それを認め、受け入れる、そのための援助として『傾聴』という作法があります。
高飛車に教え込むのではなく、本人が自分で気付き、自分の力で受け入れるまで、ただひたすら聴く、のです。

すぐにキレて際限ない苛烈な暴力をふるうクズヤローが、果たして『傾聴』に応じてくれるのか、はなはだ心許ないのですが、
彼が救われる一筋の道はそこにあるように思えるのです。

そう考えると被害者である連れ合いは、殴られながら彼の心の叫びに耳を傾けていたのではないか?
暴力を身に受けることで、彼を救おうとしていたのではないか、
そうやって『傾聴』してもらったことで、彼は生き延びることができたのではないか、と思えます。
(かといって暴力に晒され続けることは断じて認められませんが)

殴る相手を失ったクズヤローが、自分の中の失った自分を見つけ出し、それを受け入れ、それを回復できる日が来るように、私たちはひたすら祈りたい。