イースター礼拝
マルコ16:1~8

昨日は田起こし。耕運の様子を眺めながら地主さんから絆の意味を教わった。

絆とは、耕運機がなかった時代に鋤を引かせた子牛に無駄なくムラなく田圃を歩かせるための「引き綱」の名前だった。子牛の鼻ピに通されたロープは「ひきづな」と呼ばれるが、それが一旦田圃を耕すコースを子牛に教える道具として使われた途端「きづな」と呼ばれたという。

私が「教える道具なんですね」というと、「違いま、教え合う道具だ」といわれる。私が怪訝な顔をしていると地主さんはこう説明して下さった。

耕すコースを教えられた子牛はやがて自分一人でも鋤を引けるようになる。そして今度はその牛が、耕す道筋を若い百姓に教えた。きづなを持たせ自分の後を歩かせることで…。

ムラに耕せば収穫量が落ちる。
無駄に耕せば牛は疲れてしまい一日に耕す田圃の枚数が減る。余計に水と餌が要るし、早く死んでしまう原因にもなる。
米が穫れなければ家族が飢える。村が滅ぶ。田起こしとはまさに家族の命を背負った命がけの作業であり、「きづな」とはその成否を分ける命がけの道具だったのだ。

それだけではない。生死に関わる事を命がけで教える人がいる。それを必死になって受け継ぐ人がいる。その人がまた次の人にそれを命がけで伝える。「きづな」とはそのような関係性をも指す言葉なのだ。

そういえば「きづな」は糸遍に半と書く。教えるだけでは足りない、教わるだけでも足りない。互いに教え合い学び合うから「きづな」なのだ。私たち足りない者同士が教え合い学び合い撚り合わさって初めて「きづな」という丈夫な太い綱が生まれるのだ。

さて、今日はイースター。
私生児として生まれ、血のつながりのない父との関係は上手くいかず(もしかしたら虐待を受けていた?!)、地域からも「神の子」と後ろ指を指されて育ったイエスが、十字架に架けられて死んだ。しかし3日目に甦った。その出来事を喜ぶ日だ。
私は実際にイエスが甦ったとは考えていない。これは復活という神話だからだ。
イエスがゾンビのように墓から這い出してきたことを盲信する必要なんかない。
私たちはこの神話に込められた意味を学べばいい。

復活とは実は「きづな」の話なのだ。
イエスには命がけで伝えたいことがあり、十字架刑をも辞さなかった。それを弟子たちが必死で受け継ぎまた次の世代に命がけで伝えた。
その関係性こそが復活の真意なのだ。

ではイエスが伝えたかったこととは何か。
それは「生まれてきてくれて有り難う」
「生きていてくれて有り難う」という言葉だ。

貧しい身分であっても、卑しいとされる身分であっても、社会的に価値がなくても、
生まれつき障碍があっても、年老いて寝た切りになっても、人と上手くつきあえなくても、
いや自分とさえ上手くつきあえなくても、みな、今生きていることが奇蹟だ。
イエスはそのことを伝えたかった。

どうしようもない境遇に生まれた自分ですら生きていることは奇蹟だ!
みんなもそうだ!
だから、お互い、この人生を出会いを喜ぼう、感謝しよう!

そのことを確認する日がイースターなのだ。