マタイ5:17~20
1. 『命が何よりも大切だということが当たり前ではなくなってしまった』ことについて
先日、ネット上でベビーシッターを名乗っていた男が、預かった幼い兄弟を拉致虐待し1人を殺害してしまう、という痛ましい事件が起きた。
亡くなったお兄ちゃのご冥福を心から祈る。
この事件の背景には、この国と私たちが抱える問題が横たわっている。
たとえば、凄まじい勢いで広がる経済格差。
たとえば、保育行政の貧しさ至らなさ。
たとえば、社会的弱者への配慮のなさ。
そして何より、一つ一つの命を掛け替えのないものだと思わない心の在り様。
原発事故以降、政府が福島県やホットスポットの住民に対してとっている対応を見る限り、
この国の役人や政治家や事故を起こしたはずの企業は、一つ一つの命(人間だけでなく、それ以外の、世界に満ち満ちている命たち)を一顧だにしていないことが分かる。
この国に暮らしている私たちはこのような環境に身を置きながら、知らず知らずのうちに一つのことを日々学習させられている。
『一つ一つの命が何よりも大切』て、当たり前ではないんやな、てことだ。
強い者が弱い者の命を弄ぶのは当然のことなんやな、てことだ。
私たちがそこから脱け出す道を聖書から学ぶ。
2. 律法~物好きな神と選ばれた民との間の『信頼関係』
出エジプト記20章には律法の元となった『十戒』が記されている。
エジプトで奴隷にされていたイスラエル人が、神からの一方的な恩寵を受け、自由の身を与えられた。
その神がモーセを通してイスラエル人に授けた『生きるためのルール』が十戒だ。と思われているが、ちょっと違う。実は十戒は神から人に押し付けられた堅苦しい倫理的な命令ではない。
十戒は神と民との間の信頼関係に基づく、自由自在で柔らかな生き方の決意であり、信頼に応えるための約束なのだ。
両者の間にある信頼関係について考えてみる。
そもそもイスラエルの人たちが何の理由で神に大切に扱ってもらったのか、その理由は不明だ。
いやむしろ、創世記の編集者が考えていたように、神から選ばれ大切に扱われたイスラエル人はロクデナシの集団だった。
夫婦喧嘩、兄弟喧嘩、その果ての殺人、家族同士の騙し合い、傲慢、妬みは日常茶飯事だった。
他部族への強盗、詐欺、略奪も平気だった。
他人の幸せを暴力で踏みにじり破壊することを好むような、どうしようもない連中だった。
にも関わらず、選りに選って神は彼らを選んだ。
律法とは、神によって無条件に圧倒的に信頼されたイスラエル人に対する問いなのだ。
ここまで信頼されて、お前は次にどんな生き方を選択するのか?という問いなのだ。
つまり最初に挙げた事件に関連づけていえば、
若い母親(神)に信頼され託された幼い子どもを命がけで守るのか
自分の愉しみのために玩具のように弄び命を奪ってしまうのか、
私たちはそのどちらでも選ぶことが許されている。
すなわち選択権は私たちに委ねられているということだ。
3. こんな私に未来が託されている
それでも、私たちは過ちを犯す。
一握りの強者が暴力で弱者を蹂躙し、平気で命を奪う。
軍事独裁政権が長く続く国や、内戦が続く国を見れば、弱者の虐殺はいまこの瞬間にも起き数え切れない命が奪われている。
しかしそんな人間を神はなおも信頼しようとされる。
お前はどうしようもない奴だが、それでもまた私はお前を選ぶ。
お前に未来を託す。
と神は言われる。
その信頼の重さを分かっていれば、お前はそんなことはできないはずだ。
そんな道は選ばないはずだ。
いや、きっとしないだろう…、と。
選んだ側の神もまた苦しみ悶えながら、決して信じて託すことを止めない。
そうなのだ。
どうしようもない、こんな私に、未来が託されている。
そうなのだとしたら、その信頼に応えるために、私は何をすればいいのだろう。
いつもそう考え、決断し、行動することが、
一つ一つの命に寄り添う世界を創り出すための、小さいけれど大きな一歩なのだ。
1. 『命が何よりも大切だということが当たり前ではなくなってしまった』ことについて
先日、ネット上でベビーシッターを名乗っていた男が、預かった幼い兄弟を拉致虐待し1人を殺害してしまう、という痛ましい事件が起きた。
亡くなったお兄ちゃのご冥福を心から祈る。
この事件の背景には、この国と私たちが抱える問題が横たわっている。
たとえば、凄まじい勢いで広がる経済格差。
たとえば、保育行政の貧しさ至らなさ。
たとえば、社会的弱者への配慮のなさ。
そして何より、一つ一つの命を掛け替えのないものだと思わない心の在り様。
原発事故以降、政府が福島県やホットスポットの住民に対してとっている対応を見る限り、
この国の役人や政治家や事故を起こしたはずの企業は、一つ一つの命(人間だけでなく、それ以外の、世界に満ち満ちている命たち)を一顧だにしていないことが分かる。
この国に暮らしている私たちはこのような環境に身を置きながら、知らず知らずのうちに一つのことを日々学習させられている。
『一つ一つの命が何よりも大切』て、当たり前ではないんやな、てことだ。
強い者が弱い者の命を弄ぶのは当然のことなんやな、てことだ。
私たちがそこから脱け出す道を聖書から学ぶ。
2. 律法~物好きな神と選ばれた民との間の『信頼関係』
出エジプト記20章には律法の元となった『十戒』が記されている。
エジプトで奴隷にされていたイスラエル人が、神からの一方的な恩寵を受け、自由の身を与えられた。
その神がモーセを通してイスラエル人に授けた『生きるためのルール』が十戒だ。と思われているが、ちょっと違う。実は十戒は神から人に押し付けられた堅苦しい倫理的な命令ではない。
十戒は神と民との間の信頼関係に基づく、自由自在で柔らかな生き方の決意であり、信頼に応えるための約束なのだ。
両者の間にある信頼関係について考えてみる。
そもそもイスラエルの人たちが何の理由で神に大切に扱ってもらったのか、その理由は不明だ。
いやむしろ、創世記の編集者が考えていたように、神から選ばれ大切に扱われたイスラエル人はロクデナシの集団だった。
夫婦喧嘩、兄弟喧嘩、その果ての殺人、家族同士の騙し合い、傲慢、妬みは日常茶飯事だった。
他部族への強盗、詐欺、略奪も平気だった。
他人の幸せを暴力で踏みにじり破壊することを好むような、どうしようもない連中だった。
にも関わらず、選りに選って神は彼らを選んだ。
律法とは、神によって無条件に圧倒的に信頼されたイスラエル人に対する問いなのだ。
ここまで信頼されて、お前は次にどんな生き方を選択するのか?という問いなのだ。
つまり最初に挙げた事件に関連づけていえば、
若い母親(神)に信頼され託された幼い子どもを命がけで守るのか
自分の愉しみのために玩具のように弄び命を奪ってしまうのか、
私たちはそのどちらでも選ぶことが許されている。
すなわち選択権は私たちに委ねられているということだ。
3. こんな私に未来が託されている
それでも、私たちは過ちを犯す。
一握りの強者が暴力で弱者を蹂躙し、平気で命を奪う。
軍事独裁政権が長く続く国や、内戦が続く国を見れば、弱者の虐殺はいまこの瞬間にも起き数え切れない命が奪われている。
しかしそんな人間を神はなおも信頼しようとされる。
お前はどうしようもない奴だが、それでもまた私はお前を選ぶ。
お前に未来を託す。
と神は言われる。
その信頼の重さを分かっていれば、お前はそんなことはできないはずだ。
そんな道は選ばないはずだ。
いや、きっとしないだろう…、と。
選んだ側の神もまた苦しみ悶えながら、決して信じて託すことを止めない。
そうなのだ。
どうしようもない、こんな私に、未来が託されている。
そうなのだとしたら、その信頼に応えるために、私は何をすればいいのだろう。
いつもそう考え、決断し、行動することが、
一つ一つの命に寄り添う世界を創り出すための、小さいけれど大きな一歩なのだ。