マタイ3:13~17


【イエスがバプテスマを受けたのは何故か?】

バプテスマのヨハネが授けていた洗礼(バプテスマ)は、一度水に沈められて死に、水から上げられて新しく甦ることを意味していた。
この世での幸福を求める生き方から、死んだ後の幸福を求める生き方に「回心する」(悔い改める)ためだった。

ではなぜ、イエスがわざわざヨハネの手で一度死のうとしたのか。
新しく生まれ変わろうとしたのか。

私にはそこに、イエスの不幸な生い立ちと父親ヨセフとの葛藤があったのだと考える。


【私生児としての不幸な生い立ち】

イエスはヨセフと血のつながりがない。
イエスが当時ユダヤに駐留していたローマ兵が12~14歳であったマリアを強姦した末に生まれた私生児だったという説があるが、私はこれが一番腑に落ちる。
ナザレという小さな町で、イエスの噂は全住民の知るところだったに違いない。
幼少期からイエスは「神の子!」と侮蔑を込めて呼ばれていたのだろう。

偽典の中に「イエスの幼年物語」というものがある。
そこには「神の子だったらお前が彫った木彫りの鳩を実際に飛ばしてみせろ!」と揶揄される少年イエスがいる。
イエスはその悪童たちに敵意を燃やし、父なる神に願って自分が彫った鳩を生きた鳩として空に放つ。そして最後に悪童たちは事故で死んでしまう。
歴史家はこの物語を「イエスの悪魔的なまでの神性の顕れ」と解釈しているようだが、私は実際にイエスは同年代の子どもたちに徹底的に虐められていたのだと思うのだ。
私生児であることを隠すために「神の子」とされたイエス。
そのイエスは町中から「神の子!神の子!」と陰口を叩かれ続けていたのだ。

他方、父ヨセフと血のつながりがないイエスは、弟たちが生まれた時から父との関係がしっくりいかなくなったのだろう。
実子が生まれるまでは連れ子を可愛がっていた義父が、血のつながりのある子どもが生まれた途端その連れ子を虐待する、という話は今でも絶えない。
私生児として生まれたイエスもまた、弟ヤコブたちが生まれた途端、血のつながりのない父ヨセフから虐待を受けていたのではないか。

要は、イエスには居場所がなかった。
イエスには、生まれた時から居場所がなかった。
ナザレに帰ってからも同じ。
家の中にも、家の外にも、居場所がなかった。
その挙げ句イエスは長男であるにもかかわらず家業を継がず、ぶらぶらとガリラヤ湖の畔をあてなくあるいていたのではないか(今でいうニートや引きこもりの元祖がイエスだった!!)。


【居場所のない自分を受け容れた瞬間】

しかし、ある日突然イエスの目は、自分以外の「居場所のない人たち」に向かって開かれた。
ああそうか、とイエスは思った。
生まれた時から居場所のなかった私だからこそ、この居場所のない人たちのことが理解できる、と。
私はこの居場所のない人たちと真っ直ぐ向き合い、寄り添い、友達で居続けるために生まれてきたのだと。

居場所のない人たちと一緒に生きるために、イエスはいままで拘り続けてきた父との確執、町全体からの侮蔑を乗り越えようとした。
そのために、自分は一度死のうと決断した。
その結果が、ヨハネによって洗礼を授けられるというこの箇所に書かれている物語として語り継がれるようになったのだと、私は思う。


【私にとっての洗礼とは?】

では最後に、自分自身にとっての洗礼とは何かを考えたい。

先日、乙武洋匡さんが主演する「だいじょうぶ3組」という映画を観た。
物語の最後に金子みすずさんの詩について学ぶシーンが出てくる。

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金子みすず 「わたしと小鳥と鈴と」

わたしが両手を広げても
お空はちっとも飛べないが

飛べる小鳥はわたしのように
地べたを早くは走れない

わたしが体をゆすっても
きれいな音は出ないけれど

あの鳴る鈴はわたしのように
たくさんな歌は知らないよ

鈴と小鳥と それからわたし
みんな違って みんないい
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「みんな違って みんないい」というノーマライゼーション教育のキーワードになった詩だ。

自分には×××が出来ない、けれども○○○は出来る。
という自己肯定、自尊感情がここにはある。

これはさらに、最期を迎える寝た切りの老人にとっても、あるいは生まれた時から生産性の対極に生きざるを得ない障がい者にとっても救いの出来事となるのだ。

×××が出来ない、けれども×××ができないことが、私の周囲に幸せの種を播く!

そうだ、私たちはあるがままで良い。
誰かの役に立とうなんて安易に考えなくていい。
むしろ、無能で無意味で無価値である方がいいのだ。
そういう存在があればこそ、「健常」と呼ばれる人たちの生きている意味が顕在化するのだ!!

私はここに、「一度死んで、新しい自分に甦る」という劇的な出来事を見る。