マタイ1:12~17

【戦火の王たち】

舌をかむような、早口言葉のような名前がずらずらと出てくるマタイ1章1節以下の系図。

7節以下16節までの王の名前はみな、外敵からの攻撃を絶え間なく受け続けた時代のものだ。
あるときには大国によって蹂躙され、占領され、ある者は捕虜となり見知らぬ国に連れて行かれた。

ユダヤ教の教典である旧約聖書では、これらの出来事はすべて、「選ばれた民であるイスラエル人、その国の王が、その恩恵を忘れ他の神々を崇拝したため罰として下された出来事」だと考えられている。

しかし、戦火に巻き込まれる国民はたまったものではない。
特に子どもたちや女性、障がい者や老人といった弱者は、いとも簡単につつましい幸せを奪い取られてしまう。
為政者のエゴのせいで。


【サラエボの花】

「サラエボの花」という映画は、戦時下における弱者がどんな悲惨な境遇に陥るかを淡々と描く。

同様に、恐らくアッシリア、バビロン、ペルシャ、ローマという強大な相手に呑み込まれ続けたイスラエルでは、少なくとも紀元前800年頃から1000年以上、敵兵による暴行、望まない妊娠・出産は後を絶たなかっただろう。

キリストと崇められるイエスもまた、当時ユダヤに駐留していたローマ兵によって強姦されて生まれた私生児だった、という説がローマ帝国時代からある。
キリスト教を護教する立場からすると、またいわゆる正統的なキリスト教信者のみなさんからはまったく受け容れられない話なのだが、
「処女マリアからイエスが生まれた」という非科学的な噴飯物の話より、よほど現実に即した話だと私は思う。

いやむしろ、そのような境遇に神さまが身を投じて下さった、という方がずっとずっと有り難いことだと思える。


【この系図の真意】

マタイが記すこの系図は、イエスがキリストであることの権威付けのために書かれたという説があるが、それは違うだろう。

なぜかというと、マタイは系図の最後でイエスの父親ヨセフがアブラハム・ダビデの末裔だと書いたその直後、イエスの誕生物語の中でイエスとヨセフには血縁がないことを暴露しているからだ。

系図の意図はむしろ、結婚間際に強姦され妊娠したマリア、私生児として生まれたイエス、そして不幸な許嫁とその子を家族として受け容れたヨセフ、この3人の現実とその苦悩を読者に突きつけることにあったのではないか。

強姦されたショックで自殺する女性もいただろう。
許嫁が暴行を受けたこと妊娠したことを知って、婚約を破棄する男性もいただろう。
そのような境遇で生まれてきた子の命を自らの手で絶った母親もいただろう。
マリアとヨセフもまた、恐怖と狼狽と羞恥の中で苦しみ悶えただろう。
しかしマリアとヨセフは、生まれる子を受け容れ3人で生きていく覚悟を決めた。


【虫けらのように殺される側に生まれた】

武力に晒されるとき、私たちは一瞬で蹂躙される。
まるで虫けらのように簡単に殺される。
私たちの日常のささやかな幸せなど武力を行使する側からすれば無に等しい。

マリアとヨセフという若い夫婦も、戦火の下で幸せを奪われ苦悩した。

しかしその小さな家庭に、その家族の不幸の象徴のような子どもとして
神さまが生まれて下さったのだ。

神さまは高みから私たちを見下ろして、ただ観察しているのではない。
虫けらのように殺される、どうしようもなく無力な側に下り、そこに居続けて下さる。
私たちが虫けらのように殺されるその瞬間も、私たちと共にあり、私たちを見捨てられない。

イエスはそのような神さまの象徴であるがゆえにキリストなのだ。