マルコ16:14~18

【イエスの名を借りた脅迫】

マルコによる福音書の16章は、マルコのオリジナルではなく、
1章~15章が広くキリスト教会で読まれるようになったあと、
護教と宣教の強化のために付加された。

護教というのは、外部からのキリスト教批判を否定し、自分たちの宗教の正当性を主張すること。

16章を読むと、キリスト教という宗教が当時の世間一般から
どういう批判を受けていたかがよく分かる。

一言でいうと「イエスの復活」なんてありえない。
死んだ人間が甦るなんてありえない。
そんなことを真剣に信じてる奴らなんか、頭がおかしいのと違うか?!
ということだ。

これに対してマルコ16章の著者は必死で実例を挙げ連ねていて、むしろ滑稽ですらある。
最初はマグダラのマリアに(9~11節)、次にガリラヤに逃げ帰る二人の弟子たちに(12~13節)、
ついには、この3人の話を聞いても一向に信じない11人の弟子全員に(14節)
甦ったイエスは現れた、と書く。

おまけに16章の著者はイエスの口を借りて、読者(主に信徒)に対して
「宣教してこい!」と語る。
いや、語る、というより宣教の脅迫だ。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者には救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(15~16節)


【正直いって気が重い】

2000年前、ユダヤの片田舎で始まったイエスの活動は、とてもシンプルだった。

まっすぐ向き合う
寄り添う
独りにしない

これらは現代でも、教育や福祉や政治、さらには経済活動であっても必要不可欠とされているキーワードだ。

イエスにはキリスト教を始める意志はなかった。
ただ、このことを黙々と誠実に、愚直なまでに繰り返していただけだ。
だからこそ何千人、何万人という追随者と支援者が現れたのだ。

キリスト教という宗教団体を批判から護り、勢力を拡大するために書かれた16章には
イエス本来の謙虚さが見当たらない。

だから、私は16章を読むと、気が重くなる。
キリスト教という宗教に利用されてる気がするからだ。

私はイエスのような生き方に憧れる。
しかし、宗教の道具にはされたくない。

17節以下には「キリスト教信者に与えられる特殊な能力」が書き連ねられているが
はっきりいって、こんなことは私には荷が重すぎるのだ。


【ただ寄り添い、祈ることしかできない