マルコ16:1~8


親しい人
愛しい人
掛け替えのない人

親、兄弟、姉妹、子ども、親友、先輩、後輩、師、弟子…

誰かを失った時
私たちは悲嘆にくれ、
先に進めなくなる。

高齢の身内が眠るように安らかに召された時でさえ哀しい。

ましてや
国家の暴力に蹂躙され、故なく罪なく殺されたとしたら
どれほど悔しく、無念だろうか。

イエスの死を見守るしかなかった家族や弟子たち、支援者たちの思いもまた同じものだったろう。

彼らの胸の内にはたぎるような思いが渦巻いていた。
イエスが甦って、また自分たちと一緒にいてくれなければ、
自分たちは生きていけない!と。

マリアたちが墓に入ったときイエスの亡骸はそこにはなかった。
その時、マリアたちは直感したのだ。
イエスが甦り、自分たちの傍にいてくれることを。

私たちは大切な人を亡くした。
しかし、その人たちもまたイエスと同様、甦って今も私たちの傍に生きている。

生き残った私たちは先に逝った彼らの無念を胸に秘め、背負い、抱きしめながら生きる。
彼らの分まで笑い、楽しみ、当たり前の普通の日々を生きる。
それらを奪われた彼らの分まで。

しかし
私たちは弱い。
自分の暮らしだけで精一杯なのに、先に逝った人の分まで人生を楽しむなど不可能だ。
イエスの助けなしには。

この国はまたかつて誤った道に逆戻りしようとしている。
先人たちが無念のうちに残してくれた平和という遺産が、失われようとしている。

何年か後に子どもたちから
「なぜあのとき反対してくれなかったのか?」と責められることのないように

やがて天国で再会するとき、
先人たちが私たちを笑顔で迎えてくれるように

私たちはこの遺産を食いつぶすわけにはいかないのだ。