マルコ15:33~41


【イエスの死】

午前9時に十字架に磔にされたイエスはその6時間後に息を引き取った。
その直前イエスは「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのか?!」と叫んだという。

それを聞いた者たちの中には「エリヤが迎えに来るかどうか様子を見よう!」と、イエスに気付け薬を飲ませようとした連中がいたという。
(義人は生きたまま天国に上げられる、エリヤがその人を迎えに来る、という言い伝えがあった。)

使命を全うするために無実の罪で処刑されたイエス。
しかし最期の最期まで、課せられた使命を全うしなければ!という思いと、そこから逃れたいという思いの間に揺れ続けたイエス。
(捕縛の時から判決が出るまで黙し続けていたのは、口を開けば自分の無実を叫びそうになっていたからではないのか、と思う)。

甦ることを知っていたから平気で死ねたのだ、と揶揄する人がいるけれど
マルコが伝えたかったイエスは、生きることを切望する、最期の最期まで死にたくないともがき、卑しいくらい生に固執する、1人の人間の姿だ。
高みから見下ろす存在ではなく、私たちと同じ地面を這い回る1人の人としてイエスは生き、今死んでいく。

ああ、この人は、ずっと私たちと一緒なんだ、とイエスと共に生きた人たちは思ったに違いない。

「独りにはしない」

「ずっとあなたの傍にいる」

「何があっても生きろ」

「明日はきっといい日だ」

…そんなメッセージが、人として死んでいくイエスの姿から響いてくる。



【神殿の垂れ幕が真っ二つに】


イエスが死んだ瞬間、神殿の垂れ幕が裂けた。
それは神の国と俗世間とを仕切っていた垂れ幕だ。

イエスが私たちの身代わりに生け贄となって死んでくださったことで、
神の国は私たちに開かれたことを意味している。

何か特別な功績をあげなければ入れないのではなく
私たちはロクデナシのままで、汚れたままで、欠けだらけ傷だらけのままで、天国に入れるようになった。

裏切りものの汚名を着たユダにも、天国が約束されたように、
私たちにも天国が約束されているのだ。



【幸せになる】

いま流行りのFacebook。
最近「感動したら、いいね!」系のページが人気を集めている。
その中から一つ。
(プロのライターによる作り話も結構多いので、これもフィクションかも知れないが…)
担任の先生が難病にかかり、クラスの生徒に出した最後の宿題がこれだった、という話。

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「幸せになりなさい」


君たちが宿題を出す頃に

おそらく僕は天国にいるでしょう。

急いで報告に来るな。

ゆっくりでええから。

いつか面とむかって

「幸せになったで」と

きかせてください。

待ってるで。

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「天国でまた会おう!」

「その時、幸せになった、という報告を聞かせてくれ」

私にはこれがイエスの言葉に思える。

人として生き、人として苦しみ悶え、人として死んでいった「神の子」イエス。

そのイエスが十字架の上で最期まで伝えたかったことはこういうことではないのか?!