マルコ14:66~72
■有名な、ペテロがイエスを裏切る場面だ。
イエスが捕縛された時、一旦は逃げ去ったのだが、やはりイエスのことが心配で
イエスの後を追ってきたペテロ。
しかし、裁きの場を見上げる中庭にいたとき、通りがかった女中から
「あのナザレのイエスの仲間」だと指摘され「意味がわからん。知らん。」と答えてしまう。
ペテロはこの場にいてはまずいと出口の方に向かう途中、鶏が鳴いた。
その間もずっとさっきの女中はペテロのあとをつけていて、また「やっぱりこの人はあいつの仲間だ!」と大声を上げられ、ペテロはそれを否定する。
しかしこの時その遣り取りを見聞きしていた周りの人たちが立ち上がり
「その訛りと風体はガリラヤ者に違いない、きっとあいつの仲間だ!」とペテロに迫ってきたのだ。
身の危険を感じたペテロは、激しく否定し、呪いの言葉を口にし、さらには
自分とイエスが何の関係もないことを神に誓い始めた
のだ。
そしてその瞬間、鶏がまた鳴いた。
■無関心
この物語には2つのキーワードがある。
1つ目は「知らない」という言葉。
「愛」とは「あることが気になって、心が千々に乱れて、足を引きずって歩く姿」を表している。
となれば愛の反義語は「憎しみ」ではなく「無関心」ということになる。
独りぼっちのひとを、決して独りにしない。
真っ直ぐ向き合う、寄り添う生き方をイエスは教えてくれた。
1人の人に関心を持ち続ける生き方。
その人のことが心配で気になって、まっすぐ歩けないような生き方。
ペテロは「知らない」「関係がない」ということで、イエスから受け取ったものを全否定してしまったのだ。
■視線
もう1つは67節の「じっと見つめる」だ。
ペテロは女中から、また周囲の人々から、つまりイエスの逮捕を喜び、死刑判決を期待する人々(宗教的保守派)からじっと見つめられた。
それはイエスの仲間がいたら捕まえて、イエスに連座させ、大祭司に裁いてもらおう、という
罪人を探す視線だ。
自分を探し出し、捕縛し、イエスと一緒に殺そうとする視線に晒され、ペテロは三度「知らない」といってしまうのだが、
ペテロはその時、ガリラヤ湖で初めてイエスに出会った時のこと(マルコ1:16)を想い出したのだ。
あの1:16で、イエスはペテロを「真っ直ぐに見た」。
差別され、人として扱われたことのなかったペテロは、生まれて初めて自分を1人の人間として真っ直ぐに見てくれる人に出会ったのだ。
そこからペテロの「独りの人に寄り添う。ずっと友達でいる」という生き方が始まった。
今自分は、自分を咎め、捕らえようとする人々の猜疑の目にさらされてイエスを裏切ってしまった。
イエスの眼差しで命を吹き込んでもらったはずの自分が、自分の命惜しさに大恩あるイエスを否定してしまった。
だからペテロは号泣した。
■誰の目を気にして生きるのか
私たちはいつも視線に晒されて生きている。
誰からどう思われているのか気になり視線の意味を探りながらオドオドと生きている。
私たちが穏やかに堂々と生きるためにはどうしたらいいのか。
答えは「誰の視線を気にして生きるか」を明確にする、ということだ。
仮面をかぶり、巧みに押し隠してはいるけれど
実の私は弱い、狡い。
貪欲だし、何よりも自分さえよければいいと思ってる。
そんな醜悪な私を
それでもいい、そのままでいい、と赦し受け入れて下さる方がいる。
自分を知らないといった愛弟子ペテロを、それでもなお優しく見つめる方がいる。
誰の視線でもなく、その方の視線だけを感じながら、その視線に包まれながら生きて行けたら
どんなに幸せだろう。
■有名な、ペテロがイエスを裏切る場面だ。
イエスが捕縛された時、一旦は逃げ去ったのだが、やはりイエスのことが心配で
イエスの後を追ってきたペテロ。
しかし、裁きの場を見上げる中庭にいたとき、通りがかった女中から
「あのナザレのイエスの仲間」だと指摘され「意味がわからん。知らん。」と答えてしまう。
ペテロはこの場にいてはまずいと出口の方に向かう途中、鶏が鳴いた。
その間もずっとさっきの女中はペテロのあとをつけていて、また「やっぱりこの人はあいつの仲間だ!」と大声を上げられ、ペテロはそれを否定する。
しかしこの時その遣り取りを見聞きしていた周りの人たちが立ち上がり
「その訛りと風体はガリラヤ者に違いない、きっとあいつの仲間だ!」とペテロに迫ってきたのだ。
身の危険を感じたペテロは、激しく否定し、呪いの言葉を口にし、さらには
自分とイエスが何の関係もないことを神に誓い始めた
のだ。
そしてその瞬間、鶏がまた鳴いた。
■無関心
この物語には2つのキーワードがある。
1つ目は「知らない」という言葉。
「愛」とは「あることが気になって、心が千々に乱れて、足を引きずって歩く姿」を表している。
となれば愛の反義語は「憎しみ」ではなく「無関心」ということになる。
独りぼっちのひとを、決して独りにしない。
真っ直ぐ向き合う、寄り添う生き方をイエスは教えてくれた。
1人の人に関心を持ち続ける生き方。
その人のことが心配で気になって、まっすぐ歩けないような生き方。
ペテロは「知らない」「関係がない」ということで、イエスから受け取ったものを全否定してしまったのだ。
■視線
もう1つは67節の「じっと見つめる」だ。
ペテロは女中から、また周囲の人々から、つまりイエスの逮捕を喜び、死刑判決を期待する人々(宗教的保守派)からじっと見つめられた。
それはイエスの仲間がいたら捕まえて、イエスに連座させ、大祭司に裁いてもらおう、という
罪人を探す視線だ。
自分を探し出し、捕縛し、イエスと一緒に殺そうとする視線に晒され、ペテロは三度「知らない」といってしまうのだが、
ペテロはその時、ガリラヤ湖で初めてイエスに出会った時のこと(マルコ1:16)を想い出したのだ。
あの1:16で、イエスはペテロを「真っ直ぐに見た」。
差別され、人として扱われたことのなかったペテロは、生まれて初めて自分を1人の人間として真っ直ぐに見てくれる人に出会ったのだ。
そこからペテロの「独りの人に寄り添う。ずっと友達でいる」という生き方が始まった。
今自分は、自分を咎め、捕らえようとする人々の猜疑の目にさらされてイエスを裏切ってしまった。
イエスの眼差しで命を吹き込んでもらったはずの自分が、自分の命惜しさに大恩あるイエスを否定してしまった。
だからペテロは号泣した。
■誰の目を気にして生きるのか
私たちはいつも視線に晒されて生きている。
誰からどう思われているのか気になり視線の意味を探りながらオドオドと生きている。
私たちが穏やかに堂々と生きるためにはどうしたらいいのか。
答えは「誰の視線を気にして生きるか」を明確にする、ということだ。
仮面をかぶり、巧みに押し隠してはいるけれど
実の私は弱い、狡い。
貪欲だし、何よりも自分さえよければいいと思ってる。
そんな醜悪な私を
それでもいい、そのままでいい、と赦し受け入れて下さる方がいる。
自分を知らないといった愛弟子ペテロを、それでもなお優しく見つめる方がいる。
誰の視線でもなく、その方の視線だけを感じながら、その視線に包まれながら生きて行けたら
どんなに幸せだろう。