マルコ14:53~65


■使命に忠実であり続けたイエス

捕らえられたイエスは遂に、裁きの場に引き出される。
そこは宗教裁判の場。
ユダヤ教の宗教的指導者たちが「神を冒涜した罪により死刑」と、イエスにいい渡すためだった。

イエスはそこでも自分の使命に従順だった。
いくらでも言い逃れることは出来たのに、
「おまえは救い主なのか?神の子なのか?」という問いを肯定してしまうのだ。

魂の救済などそっちのけで、この世の快楽と利益にこだわり続ける私たちを
イエスは救いたくて仕方がなかった。
ここでも、哀れな私たちを永遠に救済するために、イエスは十字架上の死に向かって歩み続ける。


■責任を負わない人々

その一方で、この物語には死刑を宣告されたイエスを侮辱する人々が描かれている。
彼らはイエスに目隠しをし、小突き回し、「誰が叩いたか、言い当ててみろ!」と罵倒する。
神の子だったら何でもお見通しだろう?!と唾を吐きかけた。

神から背負わされた責務を全うしようとするイエスに対して
彼らは背負うべき責務を負う気のない人々として描かれている。

言われたことしか出来ない…
自分で判断が出来ない…
自分が進む道を自分で選べない…
そんな人が日本には溢れている。
「指示待ち症候群」に罹っているのは子どもだけではない、子どもたちの親も、その上の世代もみな、私たちの多くはそうなのだ。

自分で考え、自分で選び、自分で決め、覚悟を決めて自分の足で進む、
ということから私たちは遠く離れて生きている。

誰かが考え、選んだもの、誰かが決めてくれたことにただ付き従っていくことの方が、責任を負わずに済むし、何しろ楽ちんなのだ。


■こんな奴らのために死ねるか?!

そんな無責任で、残酷な私たちのために、イエスは身代わりとなって死のうとしている。

私なら、イヤだ。
自分の子どものためなら、自分の親のためなら、家族のためなら、親友のためなら、仲間のためなら、死ねるかもしれない。
けれど、自分を理解しない、受け入れない、否定し罵倒し、唾を吐きかけ、殴る蹴るの暴力を働くような輩のために、間違っても命を差し出したくない。

けれどもイエスはただ従順に、こんな奴らの、こんな私のために、死ぬ。
そのために裁きの場に立っている。

W.W.J.D.
What Would Jesus Do ?
イエスならどうするだろうか?と自分に問うための四つの頭文字だ。

敵を救うために命を投げ出すといった到底出来ないようなことを
神から求められたとき
私ならいったいどうするだろうか?
理不尽さを呪いながら死んでいくのだろうか?
イエスと同じ死に様を晒せることを喜べるだろうか?