使徒言行録2:1~13
■映画「アマデウス」の終盤、死の床にいるにもかかわらず、モーツアルトはレクイエムの作曲を続けていた。そんなことを続けていたらきっとすぐにでも死んでしまうと分かっていても止められない。頭の中に音が満ち溢れ、それを記譜しないではおれない。
天から降りてくるメロディーとハーモニーにモーツアルトは呵まれているようだった。
実際、モーツアルトが父に宛てた手紙には「寝ても覚めても、いつも頭の中に音が充満して気が狂いそうになる」といったことが書き残されている。
天から降りてくるのは曲だけではない。
詩、俳句、短歌、小説などの文学も
彫刻、絵画、映像、舞台などあらゆる芸術は、天からやってくる。
しかし、天からやってくるのは芸術的な何かだけではない。
私たちが生きていくために必要な「新たな言葉」もまた、天に由来する。
■今日はキリスト教の暦でいう「ペンテコステ」(五旬祭)の日。
イエスの復活から50日目に、今度は天からイエスが聖霊となって下ってこられたことを記念する日。
使徒言行録のこの箇所には、その時の様子が神話的に書かれている。
突然、大風が吹いたような音がして、
弟子たちの頭の上に「炎のような舌」が止まった。
その途端、彼らが学んだこともない他国の言語でお互いに会話することが出来るようになったのだ。
「風」とは「神の息」(命の源)、「神の霊」と同じ言葉。
要は神から「新たな霊」・「新たな命」に乗って「新たな言葉」が届けられた、ということだ。
■では「新たな言葉」とは何だろうか。
いままで自分の中にはこれっぽっちも存在していなかった新しい言葉によって、彼らは新しいコミュニケーションを生み出した。いいかえると
「新たな言葉」とは「他者との関係性を新たにする言葉」のことだ。
私たちは、閉塞した日常に倦み疲れている。
自分自身との関係はもちろん、他者との関係にも倦み疲れている。
伝えたいことが思うように伝わらない。
聞いた言葉の真意が理解できない。
神の罰を受けたバベルの塔で働く人々が、互いの欲するものを了解し得なくなってしまったように、
私たちは互いのことを理解できず、人と人との関係に行き詰まっている。
私の父は認知症が進むまで、母に「ありがとう」という言葉をいえずにいた。
そのせいで、母は父との関係に深い絶望感を抱いていた。
父に認知症が始まり、母は介護に疲れ、父との離別を考えるようになった。
しかし、ある日突然、父に「新たな言葉」が降りた。
父が母に「いつもありがとう。ほんとにありがとう。」といったのだ。
母はその時、父を護り切ろうと決意した。
それ以来父は「ありがとう」と母に繰り返すようになった。
母は、どんなにつらくても、父からの「ありがとう」があれば頑張れるのだという。
関係性を新たにするキーワードは、自分の中にはこれっぽっちも存在しない。
しかし、苦しみ悩み呻きの中でそれを求め続ける時、
そのキーワードはある日突然、私たちの中に降臨する。
神が、ただの土塊(つちくれ)に過ぎない、乾燥してしまえば瓦解するしかない私たちの中に、新たな霊を充満させて下さるのだ。
ペンテコステの奇蹟は、今も私たちの上に、起き続けている。
■映画「アマデウス」の終盤、死の床にいるにもかかわらず、モーツアルトはレクイエムの作曲を続けていた。そんなことを続けていたらきっとすぐにでも死んでしまうと分かっていても止められない。頭の中に音が満ち溢れ、それを記譜しないではおれない。
天から降りてくるメロディーとハーモニーにモーツアルトは呵まれているようだった。
実際、モーツアルトが父に宛てた手紙には「寝ても覚めても、いつも頭の中に音が充満して気が狂いそうになる」といったことが書き残されている。
天から降りてくるのは曲だけではない。
詩、俳句、短歌、小説などの文学も
彫刻、絵画、映像、舞台などあらゆる芸術は、天からやってくる。
しかし、天からやってくるのは芸術的な何かだけではない。
私たちが生きていくために必要な「新たな言葉」もまた、天に由来する。
■今日はキリスト教の暦でいう「ペンテコステ」(五旬祭)の日。
イエスの復活から50日目に、今度は天からイエスが聖霊となって下ってこられたことを記念する日。
使徒言行録のこの箇所には、その時の様子が神話的に書かれている。
突然、大風が吹いたような音がして、
弟子たちの頭の上に「炎のような舌」が止まった。
その途端、彼らが学んだこともない他国の言語でお互いに会話することが出来るようになったのだ。
「風」とは「神の息」(命の源)、「神の霊」と同じ言葉。
要は神から「新たな霊」・「新たな命」に乗って「新たな言葉」が届けられた、ということだ。
■では「新たな言葉」とは何だろうか。
いままで自分の中にはこれっぽっちも存在していなかった新しい言葉によって、彼らは新しいコミュニケーションを生み出した。いいかえると
「新たな言葉」とは「他者との関係性を新たにする言葉」のことだ。
私たちは、閉塞した日常に倦み疲れている。
自分自身との関係はもちろん、他者との関係にも倦み疲れている。
伝えたいことが思うように伝わらない。
聞いた言葉の真意が理解できない。
神の罰を受けたバベルの塔で働く人々が、互いの欲するものを了解し得なくなってしまったように、
私たちは互いのことを理解できず、人と人との関係に行き詰まっている。
私の父は認知症が進むまで、母に「ありがとう」という言葉をいえずにいた。
そのせいで、母は父との関係に深い絶望感を抱いていた。
父に認知症が始まり、母は介護に疲れ、父との離別を考えるようになった。
しかし、ある日突然、父に「新たな言葉」が降りた。
父が母に「いつもありがとう。ほんとにありがとう。」といったのだ。
母はその時、父を護り切ろうと決意した。
それ以来父は「ありがとう」と母に繰り返すようになった。
母は、どんなにつらくても、父からの「ありがとう」があれば頑張れるのだという。
関係性を新たにするキーワードは、自分の中にはこれっぽっちも存在しない。
しかし、苦しみ悩み呻きの中でそれを求め続ける時、
そのキーワードはある日突然、私たちの中に降臨する。
神が、ただの土塊(つちくれ)に過ぎない、乾燥してしまえば瓦解するしかない私たちの中に、新たな霊を充満させて下さるのだ。
ペンテコステの奇蹟は、今も私たちの上に、起き続けている。