マルコ14:51~52


【棚田と子育て】

昨日は雨の中、20年来通ってる大宇陀の棚田で田植えをしました。

田圃(特に棚田)は水の出し入れが肝心です。
水は水口(みずぐち/取水箇所)から入れただけ水口(みなくち/排水箇所)から出るように畦の高さを調整するのが基本ですが、
代掻きの前後、田植えの前後で、入れる水の量と出す水の量が変化します。
それも天候次第でこれがまた微妙に違ってくるのです。

たとえば、一昨日の夜中、大宇陀は大雨だったのですが、
こういう時はすぐに谷川から引き込んでいる水を切らねばなりません。
出て行く水の量を上回る水が田圃に入り込んでくると、水が畦から溢れ、畦を壊し、最悪、田圃を崩壊させてしまうからです。
そうならないために、この夜は、危険を顧みず87歳の地主さんが取水口を閉じに行って下さったのでした。

面倒だとか、しんどいだとか理由をつけえて横着してると、
あとで大変なことが起きる。
という点で、棚田と子ども(そして介護が必要な方)って、とても似てると思うのです。

待ったなし、剥き出しのイノチで、すっぽんぽんで目の前に立ってる。
全力で向かってくるから、全力で受け止め、全力で返さないといけない。
手を抜くと、必ずツケが回ってくる。
小事に目を瞑ってると、どえらい大事になってる。
ほんとそっくりです!


【すっぽんぽんで逃げた若者】

すっぽんぽんといえば、イエスが捕縛された時、自分も捕まることを怖れて全裸でその場から逃げ去った若者がいました。

弟子たちがイエスを見捨てて逃げたということとは別に、わざわざこの若者のことを記しているのは、よほど印象的な出来事だったのでしょう。
彼がこのあとどうなったかは聖書には記されていませんが、名もない弟子たちがそうであったように、一旦逃げたあと、またイエスと共に生きたに違いありません。

すっぽんぽんで、全力で、逃げた。
全力で醜態を晒した人間が
同じ人が、またすっぽんぽんで、全力で、イノチを掛けて使命を全うした。

ユダの物語を読んで、「ああ、これは私のことだ」と思う。
ペテロが三度イエスを知らないと答えた話に、「ああ、これも私だ」と思う。
散り散りに逃げ去った弟子たちに「ああ、これも」と思う。
しかし一番共感するのはこの若者です。

自分を守るためなら、恥も外聞もなく、すっぽんぽんで逃げる。
そんな浅ましい、剥き出しの自分を晒して生きている。

イエスがまっすぐ向き合い、寄り添い、一緒に生きようとして下さったのは
まさにこのようなすっぽんぽんの若者であり、すっぽんぽんの私なのです。

子どもたちと向き合う時、特別な配慮が必要な方たちと向き合う時、そして田圃や森と向き合う時、
私はいつも思うのです。
すっぽんぽんの私に、イエスもまたすっぽんぽんで向き合っていただいている、ということを。


【汲み取れるようになりたい】

先週、自宅トイレが完全水洗化しました。
これまで浄化槽を使っていたのですが、下水に直結したのです。
これで自宅に「汲み取り」の業者さんに来てもらうことがなくなり、
何だかとても寂しいのですが…。

それにしても「汲み取る」とは何と含蓄のある言葉でしょうか。
この都市社会と農村の田畑を結ぶ環境事業は、元々人の糞尿を有料で「汲み取り」、農村に肥料として販売する、双方にとって不可欠の、誰からも喜ばれるお仕事でした。
排泄されたものを受け取り、無駄にせず、そればかりかそれを発酵させて新しい命を育むために有効利用する。
リサイクルの理想のような事業なのです。

相手の気持ちを「汲み取る」という時、その背景に糞尿の「汲み取り」という風景があったとすれば、受け取った気持ちを発酵させ新しい命へとつないでいって初めて、それは「汲み取った」といえるのでしょう。

剥き出しのすっぽんぽんのイノチと、すっぽんぽんで向き合うために、
イエスが、また今日は母の日ですが、私たちの母がそうしてくれたように、
「汲み取れる」人になりたいと思うのです。
自分が汚物にまみれることを顧みないで、最後まで受け取る、発酵させイノチを育むお手伝いをする。
そんな人になりたいと思うのです。