マルコ14:3~9

【ライ病人が自宅で家族と食事をしているという奇跡】

イエスが捕らえられ処刑されるまであと僅かという日に、
イエスは「ライ病人シモン」の家にいて食事をしていた。
と、マルコは淡々と書いている。
しかし、当時の社会的な状況からすると、これは驚異的なことなのだ(現代日本の社会でもありえないこと!)。なぜなら、宗教的な事情でライ病人は村や町から隔離され、人里離れた洞窟や谷で集団生活を余儀なくされていたから。

おそらくこの家には
①イエス
②弟子たち
③ライ病人シモン
④シモンの家族
⑤多くの群衆
⑥イエスに香油を塗った女性
がいたと考えられるのだが、ライ病人が自宅に帰って家族やその他大勢の人たちと一緒に食事をしている、というだけで、ユダヤの戒律上「ありえない」ことであり、
また「許されない」ことだった。

「家族と地域社会から隔離された人を、元の絆の中に回復させる。」
つまり、1人の人を決して孤立させない、ということを
イエスはやり続けていた。
弟子たちもまた、イエスとの出会いによって生きる方向を変え、貧困や病苦に困窮した群衆を養うことに奔走し、そこに生きる意味を見いだしていた。

このようにマルコは、14章から始まる処刑への道程の冒頭で、①~⑤の人物を登場させ「イエスがこれまで弟子たちと展開してきたこと」を象徴的に描いてみせている。


【ナルドの香油】

そこへ次にマルコが登場させるのがナルドの香油を入れた壺を持った1人の女性(登場人物⑥)だ。彼女はあろうことか壺を割って中の香油をイエスの頭にぶっかけた。

ナルドの香油というのは、ヒマラヤの辺りで穫れる大層珍しい高価なアロマオイルで、
壺一つで300デナリもしたという。
(壺の大きさは不明。一つの遺体に塗り込み、腐臭を防いだとすれば、壺一つで10リットルくらいはあったのだろうか。ヨハネによれば1リトラ=326グラムを脚に塗り、髪で拭ったとあるが…)
1デナリが成人男子の日当だったということからすると、1デナリ=1万円として壺1つで300万円!
マルコ6:30~によれば200デナリで5000人の成人男性を腹一杯にすることができたようなので、
300デナリは7~8000人の飢えた群衆を助ける資金になりえたことになる。

それほど高価なものを換金することもせず、
死んでもいない人の頭にかけるとは、何という勿体ないことをするのだ!
と、毎日集まってくる群衆の食事の世話に奔走していた弟子たちが憤慨したのも当然のことなのだ。(ヨハネ12:1~では会計係だったイスカリオテのユダが一番怒ったとある。)


【イエスの行く道を弟子たちは理解していなかった】

マルコは②と⑥を対峙させることで、イエスが目指したものを際立たせている。

方や、日々のルーティンワークをこなすので精一杯でイエスが自分たちの身代わりとなって(罪人の代表として)殺されるなどとは思ってもみなかった弟子たち。

他方、イエスがまもなく自分の身代わりになって処刑されると知った1人の女性。

弟子たちが「目の前の飢えた群衆を腹一杯にさせる」ことだけを気に掛けていたのに対して、
彼女はすでにイエスの埋葬のことを考えていた。
処刑されれば遺体が私たちの元に帰らないかもしれない。
だからせめて先生が生きている間に、弔いの準備をさせてほしい、
この香油がどれだけ高価かは知っている、しかしだからこそ、
あなたのためにこれを使わせてほしい。
そのような湧き出るような思いから、彼女はイエスに香油を注いだのだろう。

イエスは死ぬ。
イエスは罪人として処刑される。
しかし、だからこそ
私たちは究極の孤独である「死」から解放される。
と、マルコは伝えたかったのだ。


【私がイエスにしてあげられること】

マルコのすごいのは、結局は目に見えるものに拘っている弟子たちと、イエスの死の意味を知っていた女性を対峙させたことに留まらない。

弟子たちにイエスはいう。
「群衆はいつもおまえたちと一緒にいる。だから好きなときにいつでも施しをしてやれる」
「しかし、私はいつも一緒にいる訳ではない。だから…」と。

「だから…」彼女は香油をぶっかけた。
では、私は?
では、あなたは?
とマルコは問いかけてくるのだ。

いつもイエスから何かをしてもらうことばかり考えている私たちにとって、この問いは衝撃的だ。

パバロッティ、カレーラス、ドミンゴが「眠れないから」と
歌の素人に向かって子守歌を求めているようなものだろう。

実力からいって、あまりにも差がありすぎて、そんなことが出来るはずがないと、最初から諦めている。
しかし、マルコが描くイエスはそうはいわない。
「いつも一緒にいる訳ではない私に、あなたは何を施してくれるのか」。

私たちのために命を捧げて下さったイエス。
そのイエスにしてあげられることは、いったい何なのか?
それがすぐに判らなくても
それが「ある」というだけで、心の中に希望が湧いてくる。