マルコ14:1~2

1.【選ぶ自由・決める自由】

人には「選ぶ」「決める」自由がある。
自分に似合う服を選び、それを着る自由がある。
ふさわしい道を選び、その道を進む自由がある。

しかし、国が戦争を始めたらどうなるか。
軍隊に入り人を殺すことは嫌だと思っても、召集令状一枚で兵士にならねばならない。

もっと身近な例でいえば
「安全で新鮮な空気を吸いたい」と思っても、大阪では汚染瓦礫の焼却が始まり、放射能やアスベストが混じった空気しか吸えない。
(中国から殺人微粒子が飛来する、注意せよと最近突然政府やマスコミが騒ぎだしたが、それは大阪での瓦礫焼却被害をぼかすための策略だろう。SF2.5はすでに何年も前から西風に乗って飛来し実害を与えているのだから。)

2.【マルコが描く自由】

マルコが描くイエスは、出会う人にいつも「回心(改心ではない!)」を求めてきた。
朽ちるものにではなく、永遠に続くものに目を向け、心の向きを変えることを求めた。
それも決して強制ではなく、「自分で選び」「自分で決める」という自由を保障し、「あなたならどうする?」と問いかけ続けた。

3.【神さまの自由】

その一方でイエスを捕らえて殺す計画は着々と進んでいた。
イエスもまた自分が殺されると知っていた。
捕らえられ犯罪者として処刑されると知っていた。
もちろんイエスにも「選び」「決める」自由はあり、逃げることも可能だった。
しかしイエスは敢えて殺される道を選んだ。

いつか朽ちるものではなく永遠なるものに目を向け、
神が望んでおられることに耳を傾けた結果
イエスが選び、決定したことは
「凡ての罪人の身代わりとなって殺される」という道だったのだ。

私はこのイエスの生き様に、「神さまの決意の固さ」を見る。
神さまだって、選び・決める自由がある(当然か!)。
しかし、その自由の中で神さまは、
私たちのようなロクデナシを、塵芥のごとき取るに足らない者を、欲張りで卑しく、目先の利のためなら弱い者を踏みつけて平然としていられるような者を、
救おうと決意された。
天罰を下し、滅ぼすのではなく、
自ら身代わりになってでも私たちを救おうと、決意された。

殺されると知っていたにもかかわらず敢えてその道を進むイエスには
私たちを救いたいと願う強烈な神の意志が漲っている。


私たちはどう応えたらいいのだろう。

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(註)私はイエスの覚悟を引き合いに出して「大切な人を守るために戦争に参加し、敵を殺そう」と奨めているのではないことを言い添えておきます。右傾化・翼賛化のご時世なので。