マルコ13:3~13
「その時を待つ勇気」
いつの時代でも悪がのさばり、正しい人が虐げられる。
吸血鬼のような人間が人生を謳歌し、
清貧を貫いた人が誹りを受ける。
そして、そんな理不尽な日常にカミサマはいつも素知らぬ顔をしておられる。
それがワタシは不思議で仕方がないし、
ワタシには納得がいかない…。
そうだ
きっと、この世の終わりの時に、
カミサマは「人の姿」で私たちの前に立ち、
悪人を地獄へたたき落とし、善人を天国に招き入れて下さるに違いない!
最後の審判の後、
悪人は人生を謳歌した何十倍も何百倍も、永遠に地獄で苦しみ悶え、
善人は苦しんだ何十倍も何百倍も、永遠に天国で安寧に暮らすのだ!
そうでなくてはやりきれない。
こんなに辛い毎日を、踏みつけにされながら生きて行くには、
そうでなくてはやっていけない。
しかしたとえそうだとしても、
その日が来るまでの間、ワタシはこの日常に耐えられるのだろうか。
寒々とした暗闇の中
たった独りで、
ワタシはその日を待ち続けることが出来るのだろうか。
イエスをカミサマが下さった救い主だと信じたい気持ちの背景には
「その時を、独りでは待つことができない」私たちの弱さがある。
私たちには、最後の審判の日まで、ずっと傍にいてくれる誰かが必要なのだ。
イエスと出会った人々が、イエスを「神の子」だと思わざるを得なかった気持ち。
イエスを「神の子」だと信じて疑わない思いを、
私は今日、ようやく少しばかり理解できたような気がしている。
何よりも
2000年前のパレスチナに生きていたイエスという人が
自分のすぐ傍に、
いつもずっと
死ぬときも
死んだ後も
ずっと
居続けてくれるのだというような非科学的で非常識なことが、私の中で間違いのない現実味を帯びている理由が判明し、ホッとしている。
イエスが今も後も一緒に居てくれなければ、私には「その時を待つ勇気」など湧いてこない、ということだ。
「その時を待つ勇気」
いつの時代でも悪がのさばり、正しい人が虐げられる。
吸血鬼のような人間が人生を謳歌し、
清貧を貫いた人が誹りを受ける。
そして、そんな理不尽な日常にカミサマはいつも素知らぬ顔をしておられる。
それがワタシは不思議で仕方がないし、
ワタシには納得がいかない…。
そうだ
きっと、この世の終わりの時に、
カミサマは「人の姿」で私たちの前に立ち、
悪人を地獄へたたき落とし、善人を天国に招き入れて下さるに違いない!
最後の審判の後、
悪人は人生を謳歌した何十倍も何百倍も、永遠に地獄で苦しみ悶え、
善人は苦しんだ何十倍も何百倍も、永遠に天国で安寧に暮らすのだ!
そうでなくてはやりきれない。
こんなに辛い毎日を、踏みつけにされながら生きて行くには、
そうでなくてはやっていけない。
しかしたとえそうだとしても、
その日が来るまでの間、ワタシはこの日常に耐えられるのだろうか。
寒々とした暗闇の中
たった独りで、
ワタシはその日を待ち続けることが出来るのだろうか。
イエスをカミサマが下さった救い主だと信じたい気持ちの背景には
「その時を、独りでは待つことができない」私たちの弱さがある。
私たちには、最後の審判の日まで、ずっと傍にいてくれる誰かが必要なのだ。
イエスと出会った人々が、イエスを「神の子」だと思わざるを得なかった気持ち。
イエスを「神の子」だと信じて疑わない思いを、
私は今日、ようやく少しばかり理解できたような気がしている。
何よりも
2000年前のパレスチナに生きていたイエスという人が
自分のすぐ傍に、
いつもずっと
死ぬときも
死んだ後も
ずっと
居続けてくれるのだというような非科学的で非常識なことが、私の中で間違いのない現実味を帯びている理由が判明し、ホッとしている。
イエスが今も後も一緒に居てくれなければ、私には「その時を待つ勇気」など湧いてこない、ということだ。