マルコ11:12~14

自分がいくら空腹だからといって
実をつけるはずもない時季の、葉っぱばかりのイチジクの木を
ここまで口悪しく呪わなくてもいいのに…と、
子どもの頃思った。

教会でも
この箇所をネタに
「神があなたを必要とされる時がいつ到来してもいいように、常に備えておきなさい」と
ボーイスカウトの標語みたいな説教を聞かされた記憶しかない。

しかし、
威張ることを嫌い
一人一人と向き合い
一人一人に仕えたイエスが、
そんなことをいうのだろうか。

この物語は
「イエスをアイドル(偶像)と見立てた弟子たち」の頓珍漢さを描いているのだと思う。

イエスは朝からマヂで腹が減ってた。
しかし、「AKBの×田△子は絶対おしっこをしない!」的なノリで
「政治的にも宗教的にもこの国を統治する神の子が、エルサレムに入城される時に空腹な訳がない」と
弟子たちは思い込んでいた。

だから腹ぺこのイエスを見ても、ベタニア村に食べ物をとりに戻る奴が一人もいなかったのだ。

イエスを神格化し
権威付けし、
その権威を利用して弱い立場の人の上に立とうとする。
そんな思惑に囚われた連中に囲まれて
イエスは死出の旅の最中にいる。

苦悩の中にあり、
助けを求める人を前にして、
私はその人が必要としているものを懸命に探すだろうか。
それとも、その人とその人の苦しみを利用して、自分の腹を満たそうとするだろうか。

いや、それ以上に簡単な問いだ。

一緒にいる人が腹を空かせてる。
そのことに気付かないなんて、一体何を見てるの?