マルコ10:23~41

金持ちが天国に入るのは、駱駝が針の穴を通るより難しい
と、イエスはいった。

貧しくて今にも死にそうな
偉い人の目には風景の一部にしか感じられないような
小さな命のためにこそ、
天国は開かれている。
と、イエスはいいたかったのだろう。

しかし、この箇所には多分に教団の会計担当者の意図が込められている。
脅しをちらつかせて、
資産ある信徒に資金の提供を呼びかけているのだ。

ちょっと待ってや!

それってイエスが伝えたかったことと違うやん?!

イエスは私たちに
「日常に拘らず、神が求める非日常に旅立つ勇気」を求めた。
そして
貧しさ故に日常から抜け出したくても抜け出せない人に対して、
天国を確約した。

魂が何に拘っているか
魂がどこを向いているかが
一番大事なのだとイエスは伝えたのだ。

それにくらべて
宗教団体としての形を維持するためにイエスの言葉を利用する
初期キリスト教団の何と浅ましいことか!

いや、確かに
金にばかり向き合い
金に拘るものには
魂の行く末は見えないだろう。

しかし
イエスは私たちに
イエス自身に拘ることさえ棄てさせたのだ。
自らを捕らえさせ
十字架につけさせることで
イエスはあらゆる拘りから解放される自由を提示して見せたのだ。

「忘己利他」。
天台宗の言葉らしい。
これを稲森和夫氏は「もう懲りた」と読んだという。

貧乏人からすれば
大金持ちの余裕のように聞こえて癪に障るが、
私たちは
イエスを真似て
己に拘る生き方に懲りたいものだ。

余談だが、
滅びようとする日本国の資産に群がる亡者のごとき政治家や官僚、資本家たちに
もしも天国が開かれているなら
信心なんかやってられねぇっっ!