創世記12:1~4

子ども、特に男の子は、
思春期を乗り越えるとき、
父親を殺さなければならない。

物理的に殺害するということではない。
精神的に完全否定し、父親とは違う価値観を獲得して初めて
大人になれる。
という意味だ。

私は「アブラムの召命」と呼ばれるこの物語を読む旅に
19歳のある冬の日を想い出し胸が熱くなる。

あの日、
仕事に疲れ阿呆のように眠りこけている父を見下ろしながら
私は父に馬乗りになり首に手を懸け、力の限り首を絞めていた。
いや、実際にはしていないのだが、
頭の中では
意見が合わず衝突を繰り返していた父を、
自分の気儘で母に負担をかけ続け感謝のかけらもない、
憎くて仕方なかった父を絞め殺していた。

しかし
次の瞬間
私は激しく嗚咽していた。

19年間ずっと家族を守り必死で働いてくれた父の有り難さと
もうこの家には居られないという寂しさがこみ上げてきたからだった。


アブラムは
ある日突然、親元を離れ
一人社会に足を踏み出すよう
神に命じられた。

それも
まだ見たこともない「神が示す地」に向かえといわれた(12:1)。
そして彼は「主の言葉に従って旅立った」(12:4)。

圧倒的な父の権勢の下で
庇護されながら
支配されながら生きるのか、
何の保証もなく、不安だらけの夜道を自分の足で歩くのか、
アブラムもきっと
葛藤していたに違いない。

父への感謝と
家を出る寂しさ、心細さ。

自分が何者かを知るためには
逃げる訳にはいかない、挑まなければならない旅。

その旅にアブラムを押し出したのは
「神はいつも私と共に在り、私を守り導いて下さる」という
目に見えない大きな力に対する信頼感だったのではないか。


そう考えると
この物語は思春期の子どもたちに限った話ではない。
思春期をとうに終えた大人や死を間近に迎えた高齢者にもあてはまる。

私たちはいつも
行方も分からない暗闇を
たった一人で旅しているのだ。
死に向かっているということ以外
明らかなことは何もない。

不安だらけの旅を続けられる根拠があるとすれば
それは
「神、共にいます」という事実だけだ。