今ここにいる理由 | OnedayStory 【Once again 2022~】

OnedayStory 【Once again 2022~】

失敗も成功も格好つけずにとにかく正直に書いていきたいと思います。




2011年3月11日。



あの日から丸5年が過ぎた。








5年という年月を迎えた今日も
まだ、未だに元の生活に戻れない方が
大勢いる。


そして
災害で助かった方の中に
先の見えない未来に
自ら命を絶つ人もいるという現実。




胸が締め付けられる。





5年という月日が経ち、
今日東京はいつもと変わらない金曜日でした。



5年という月日が経ち、
俺もいつもと同じ金曜日を生きた。



5年前。




今回、あの日を事細かく書こうと思います。
憶えている限りのこと全てを。
忘れることはなく、でも、言葉にするのは難しいかもしれないけど…書く。

怒られるかもしれないが
店の名も全て嘘偽りなく書きます。
時効ということで許してください。



そして自分が今、音楽をやっている経緯や
思いも込めて。


一度、書かなきゃいけない。


長くなりますし、自分目線のことなので
良く思わない方もいるかと思います。
でも書きます。










2011年、3月10日

当時、僕は新橋でカフェの店長をしていた。
店長として7年目の春。
店の名前は楡。
新橋の駅中のショッピングモール、
wing新橋内。(今はもう店はない)


楡は当時は新宿、大手町、馬込に店舗があったが
一昨年あたりに新宿も撤退し、現在は大手町と馬込本店の2店舗のみ。

大手カフェには足元にも及ばないが、新橋の
売り上げは年間8000万辺り。




ふた手間では仕事は回らない。
日々仕入れ業者とミーティング。
品質。
クレンリネス。
従業員のモチベーション。
店長会議。
数字。


その頃僕は次の日のケーキを朝の5時まで作り、大きなショーケースに並べていくという作業を日々繰り返していた。
ほぼ手作りのケーキで満たし、賑やかなショーケースにすることはとてつもなく大変だったが美味しいと言ってくれるお客様の顔を見れば幸せだったから妥協せずひとつひとつ手塩にかけた。
なので繁盛期の12月は合わせて
二度倒れたことがある。


営業時間は朝7時にオープン、23時クローズ。


日に日にケーキは好調に売れ始め、アイドルタイムもなくなり売り上げもそれに見合ったものになっていた。
全てが上向きだった。


店長になって初めて幸せを感じていた。





2011年、3月11日。

大きな地震で目を覚ます。
ベッドから飛び起きTVを支えながら付ける。
食器と植木鉢が棚から落ち、床で割れる。


まぁ大丈夫だろうと思っていたが
そんな気持ちも直ぐに消される。

緊急地震速報が続く。
初めて見る大津波警報。
ただ事ではない。




店は大丈夫だろうか。
電話が繋がらない。



当時僕は荻窪に住んでいてバイク通勤していた。


電車と道路が混乱し始めている。




とにかく店に行こうと思いバイクに跨る。

青梅街道から新宿通りへ。

道路は今まで見たことない異様な光景。
車と人で溢れかえっていた。
道路を歩く人とぶつかりながら無理やり前に
バイクを進め、40分の道のりを2時間かかって店に到着。


幸い皆無事で、店の席は埋まりお客様は状況の把握とこれからどうするかを、話し合っている。
とにかく電車が完全に止まり再開の目処は立たない状況。




地下のショッピングモールの通路に人が増えてくる。


他の店舗の店長と話をし、帰るにも今は帰れないからしばらく様子をみて支配人の指示を待とうということになった。


うちの従業員には歩いて帰れそうなら帰ってかま
わないと伝える。


店は何時まで開けておくか。
帰れない従業員はどうするか。

とにかくここに留まるしかなかった。



銀座にドンキホーテがあるので自転車を買ってこようと思い立ったが、その時点で全て自転車が完売していた。

結局、23時頃各店のシャッターを下ろすということでお客様には退店して頂き、各店舗の店長とミーティングを開始。

その頃携帯が復旧し、段々と状況がわかりはじめる。

津波が凄かったらしい…?

沢山の人が死んだらしい…?


そして続く緊急地震速報のサイレン。

それぞれ家族と連絡を取り合う。


段々と皆の顔に不安と疲労が浮かび始める。







2011年、3月12日。午前2時。

シャッターを下ろした地下のショッピングモールには溢れた帰宅難民が冷たいコンクリートにうずくまっていた。


女性優先でお店に入れるか…
いろいろ話し合った。


できることは、あるか。



うちはカフェで飲み物ならある。
ただ紙コップのようなものがない。


同じモール内の日本一を誇る売り上げのエクセルシオールの店長と話し合い、テイクアウト用のカップを出してくれることを快諾してくれた。


暖かい紅茶を皆に配ろう。

紅茶はうちが作る。



各店舗の皆が団結しうちの店に集まり、紅茶を入れ手分けして皆に配った。




そしてその後、近くの直久(ラーメン屋さん)が
温かいスープを配り始めた。
もちろん無償で。





2011年、3月12日。5時。

そろそろ朝になる。



開店はどうするか。
パン屋は来てくれるだろうか。





従業員で話し合い
店に在庫がある限りはオープンしようと
いうことになった。


パン屋が到着。
通常通りの納品の数だ。



2011年、3月12日。6時30分。



店の前にかなりの行列が出来ている。
皆もちろん帰れなかった人達だ。
これはまずいかもしれない。
食材が足りない。


オープンから2時間、大きな山パン10山が底を着く。

そこからは米でやりくりだ。


詳細は忘れてしまったが
午後には幾つかの路線が復旧し始め、皆が電光掲示版を見つめているのを覚えている。


数日は少し早めに店を閉めることになった。


疲れがどっと出てきた。

帰り道、通常ならばネオンきらめく新宿通りも
どこか薄暗いアルタ前をバイクで通過し
家に着いた途端倒れるように眠った…






2011年、3月13日。


ニュースで初めて津波の甚大な被害を知った。
本当に日本で起こったことなのかと信じることができないでいた。

コンビニやスーパーの品が全くなく、今まで体験したことのない【怖さ】を感じた。


計画停電。
無駄な電気を省く。

賑わってたショーケースも店も暗くなり
静まり返った。
売り上げが震災前の半分になった。
ケーキを作る気力がなく本店からホールケーキを3~4種類送ってもらいそれだけをショーケースに並べた。

震災をきっかけに数人、従業員が辞めた。



仲良くしてた店長の目が真っ赤に腫れてた。

友達が津波で死んだと。

津波の来る直前までたまたまつながった電話で話していたらしい。
その直後津波に飲まれてしまった…



辛すぎる



俺はその人の写真をもらった。








あの日から自分自信、何かの糸が切れていた。
5日間家から外に出られず
仕事を休んだ。
誰とも話したくなくてずっと1人でいた。
動けなかった。





東京の街が暗い。
これから何ができるのか。
もう何もわからない。
未来が全く見えない。




仕事に命をかけてやってきたつもりだったが
もう全てあの頃に戻ることはないと俯いた。








夜毎震災のYouTubeを見ていた。
静かな部屋の中で
YouTubeで海外の方が沢山援助に駆けつけてくれた動画を見つけ子供のように泣いた。



何度も見ては何度も泣いた。



力を貸してくれる人。
物資を運んでくれる人。
祈りを捧げてくれる人。


枯れるまで泣いた。




俺はただひとり嘆いているだけ…
何もしてあげずに悲観に酔いしれているだけ…










次の日から少しずつケーキをまた
作り始めた。
心と逆走する身体はひどく辛い。

それでも自分がまずできることをしなくては。





売り上げは戻ることはなかったが
それでも出来る限り作り続けた。





人生とは…

これからのこと…









ある日隣の店長が
「ここの列のお店リニューアルで
撤退らしいですよ、
なんかそんな話聞いてます?」
と言ってきた。



撤退とはまさにさよならを意味する。





びっくりした俺は社長に聞いてみることにした。
まさか店がなくなることはないだろう。
そう思いながら社長に電話をする。


「社長、うちって撤退するんですか」
率直に聞いた。
すると声のトーンを下げた社長が
「実はそうなってしまったんだ。一番に言えなくてごめん」
そのとき心が音を立て崩れた。


社長を責めた。
社長は「頑張ってるから言い出せなかった」と
辛そうな声で言った。


一気に涙が溢れ出して
泣き崩れた。
アルバイトが近くにいたが泣き崩れた。
アルバイトの子が「大丈夫ですか」と何度も声をかけてくれた。
ただ泣きながら「ごめんね」とずっと繰り返した。
そして立っていることもできないくらいの頭痛が襲ってきた。



帰れずひとり店の椅子に横になり
片目を開けて
友人に助けを求めた。


タクシーに乗りその友人の家に泊めさせてもらうことにした。
東京の夜景が滲む。

もう何も考えられない。
何も。

明日が来るのかすらも本当にわからなかった。









次の日



目覚めると朝日が差し込んだ。
真っ白な光。

割れるような頭痛はどこかへ消え
頭の中が空っぽのように軽い。



友人が朝ごはんを作ってくれた。
ゆっくりと静かに口に運んだ。


カーテンを開けると日差しがさらに真っ直ぐ
飛び込んできた。

そのときふっと言葉がよぎった。







「歌を歌う」





その言葉だけが浮かんだ。






そのあと
10年お世話になった会社を辞めることを決め、
社長に伝えた。

お店を整理し、やめる準備を整えて
僕はドアを閉めた。







この震災は沢山の事を感じ経験した。
人生と歌に向き合う姿勢も意味も大きく
変わった。




20代、音楽をやっていたけれど
理由がいまいちわからなかった。


音楽から遠く離れ社会の中で
揉まれながら気付くことがあると思った。


なるようにしかならないのならば
風に身を任せてみようと思った。



音楽をやるチャンスがもう来ないのならば
それが自分の人生だと割り切ろうと思った。


でも、
いろんなタイミングが重なり
もう一度音楽に関わることができた。


その日、音楽に対する心構えや意味が
自分の中で初めて生まれた。


だからこれから音楽に関わる全てのものの中で
社会に少しでも貢献していきたいと思う。



有名になりたいとか武道館でライブしたいとか
そんなことは今もこれからももしかしたら
思わないかもしれない。


人の温かさに触れた分それを倍に返していきたい。





ふと浮かぶ。



何かを他人事のように笑ってる人が
いざ困難に陥り
その時、助けてくれる人がいる。

誰かが言う。
そいつはお前の不幸を笑うような人間なんだから
助ける必要なんてない   と。
でもそんなことは関係ないよと
今困ってる人を助けるのは人間として当然なことと温かい手を差し伸べる人がいる。

他人事のように笑ってた人は
その温かい手に触れた時
生まれ変わる。

人が無くしてはいけないのは
お金でも夢でもなく
思いやりだよ   と
その人は笑った






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