文章がしっかりかけなくなってきてしまっているので、再開させようと思った。
しかし、自分の以前のテキストを見ると酷いなんてものじゃない・・・。
あの頃の僕は何がしたかったのだろうかなんて思うのである。
以前から僕は全面開口が嫌いだった、その理由漬けを考えたテキストが仕上がったので載せようと思う。
まだまだ論が固まっていないので、間違いだらけかもしれないけれど、自分が建築を見つめる上での発展途上だと思って頂ければ嬉しいです。
・都市空間と建築空間
空間とは、なんだろうか。
空間の解釈は実に多様だが、個の建築の持つ空間の考え方は特に難儀になる。
図と地のような、二分化された定義は現在も広く使われているが、結果的には、建物の外壁は図と地では分別できないマッスとなっているのではないだろうか。
知覚的に内面の仕上げが建築空間のエッジ、外壁の仕上げが都市空間のエッジとしても、断面層は二部することはできない。
古今のガラス開口を多く使い、壁の断面層の色を消し去り、建物のエッジを可能な限り弱くする手法は、はたしていいのだろうか
これは、視覚的な都市との接続であり、都市との接続を強制するものである。
この手法による人々の振る舞いが文脈なく乱雑に都市に発信される現代住宅は、一部を除いて見る見られるの関係を度外視したいわゆる破廉恥なもので、都市の品格を落とすものになってはいないだろうか。
旧来の日本住宅における開口は、路面に接していても障子などにより、プライベートな時間には視覚的には遮断されていた。
また大きくなるごとに、庭による距離の取り方、及び塀による強い遮断等、いわゆる路面に対する私的空間の接続に秩序が形成されていた。
それらの歴史的流れを排除して、ガラスばりの透明な建築をたてることは都市の秩序を破綻させるものではないだろうか。
特に住宅とは、もっともプライベートな空間であり、都市に対する肉となるものである。
それらを透明にして、生活の構造を暴くことは、本当にいいことなのだろうか?
果たして他者の生活の構造を見たいと思うのだろうか?
私はそうは思わない。
外壁を不透明にすることで、人は社会や都市から断絶され、人は振る舞いに自由を得る。
裸にもなれれば、そこで酒に溺れることもできる。
一方で透明な建築は、人に対して、強いコードを与えて、住み方生き方に不自由を与えてしまう。
そこでは衣服を纏い、都市の住人として振舞わなければ都市の秩序が破綻してしまうのだ。
そして、事実それらのコードを守れずに間違った接続が行われている。
個の空間がワガママに都市に個を発信しているのだ。
これにより、現代都市はひどく劣悪な視覚的醜態を曝け出している。
この視覚的汚染を防ぐにはどうするべきだろうか。
少なくても学生のうちには開口から考えるのではなく壁面、閉じる空間をもっと意識するべきなのかもしれない。
そうすることで無駄な全面硝子は現れない。
開口部から発信するものはその住民の最も幸せな姿であるのではないだろうか
リビングで談笑する様、机に向かい教養を楽しむ様、庭でガーデニングを楽しむ様
これらの内部の情景を、ピクチャレスクに伝えるのもまた開口の在り方で
客人がきたときにみせられないもの、寝ている姿、掃除をする様、風呂に入る様等は極力都市とは接続すべきではないのでなかろうか。
しかし、自分の以前のテキストを見ると酷いなんてものじゃない・・・。
あの頃の僕は何がしたかったのだろうかなんて思うのである。
以前から僕は全面開口が嫌いだった、その理由漬けを考えたテキストが仕上がったので載せようと思う。
まだまだ論が固まっていないので、間違いだらけかもしれないけれど、自分が建築を見つめる上での発展途上だと思って頂ければ嬉しいです。
・都市空間と建築空間
空間とは、なんだろうか。
空間の解釈は実に多様だが、個の建築の持つ空間の考え方は特に難儀になる。
図と地のような、二分化された定義は現在も広く使われているが、結果的には、建物の外壁は図と地では分別できないマッスとなっているのではないだろうか。
知覚的に内面の仕上げが建築空間のエッジ、外壁の仕上げが都市空間のエッジとしても、断面層は二部することはできない。
古今のガラス開口を多く使い、壁の断面層の色を消し去り、建物のエッジを可能な限り弱くする手法は、はたしていいのだろうか
これは、視覚的な都市との接続であり、都市との接続を強制するものである。
この手法による人々の振る舞いが文脈なく乱雑に都市に発信される現代住宅は、一部を除いて見る見られるの関係を度外視したいわゆる破廉恥なもので、都市の品格を落とすものになってはいないだろうか。
旧来の日本住宅における開口は、路面に接していても障子などにより、プライベートな時間には視覚的には遮断されていた。
また大きくなるごとに、庭による距離の取り方、及び塀による強い遮断等、いわゆる路面に対する私的空間の接続に秩序が形成されていた。
それらの歴史的流れを排除して、ガラスばりの透明な建築をたてることは都市の秩序を破綻させるものではないだろうか。
特に住宅とは、もっともプライベートな空間であり、都市に対する肉となるものである。
それらを透明にして、生活の構造を暴くことは、本当にいいことなのだろうか?
果たして他者の生活の構造を見たいと思うのだろうか?
私はそうは思わない。
外壁を不透明にすることで、人は社会や都市から断絶され、人は振る舞いに自由を得る。
裸にもなれれば、そこで酒に溺れることもできる。
一方で透明な建築は、人に対して、強いコードを与えて、住み方生き方に不自由を与えてしまう。
そこでは衣服を纏い、都市の住人として振舞わなければ都市の秩序が破綻してしまうのだ。
そして、事実それらのコードを守れずに間違った接続が行われている。
個の空間がワガママに都市に個を発信しているのだ。
これにより、現代都市はひどく劣悪な視覚的醜態を曝け出している。
この視覚的汚染を防ぐにはどうするべきだろうか。
少なくても学生のうちには開口から考えるのではなく壁面、閉じる空間をもっと意識するべきなのかもしれない。
そうすることで無駄な全面硝子は現れない。
開口部から発信するものはその住民の最も幸せな姿であるのではないだろうか
リビングで談笑する様、机に向かい教養を楽しむ様、庭でガーデニングを楽しむ様
これらの内部の情景を、ピクチャレスクに伝えるのもまた開口の在り方で
客人がきたときにみせられないもの、寝ている姿、掃除をする様、風呂に入る様等は極力都市とは接続すべきではないのでなかろうか。
