〜君が代とは〜
日本の祭典や儀式、入学卒業式やスポーツ大会などあらゆる場面において必ず歌われるのが「君が代」という日本の国歌だ。君が代はもともと平安時代の古今和歌集に始まる、読み人知らず(作者不詳)の親しい人の長寿を願う歌だった。古今和歌集は紀貫之を筆頭とする人物らが編纂した、勅撰和歌集。つまり天皇の命を受け作り上げたという事だ。だが、その君が代の法解釈をめぐって様々な議論が後を絶たない。それはなぜか。具体的に見ていこう。
〜君が代の「君」は天皇を指すのか〜
ここで君が代の歌詞を全文抜粋する。
「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔(こけ)の生すまで」ここで注目したいのが「君」とは誰を指すのかだ。1999年に制定された「国旗及び国歌に関する法律」で初めて「君が代」が国歌として認められたわけだが、実は「君」というのは戦時下で扱われた「修身」という教科書に簡潔にまとめると『「君」とは天皇のことを指す』と記載されている。この時点で天皇賛美の歌であることは間違いない。ではもともとそれより前では具体的にどのような解釈だったのか。歴史を遡る。
〜「君が代」の歴史〜
そもそも江戸や明治時代には日本に国歌はなかった。国歌が制定されるきっかけとなったのは、当時の薩摩藩の軍楽隊「薩摩バンド」だった。1862年、島津久光が行進する列を横切ったイギリス人が薩摩藩の武士に殺傷されるという事件が起こり、それを機に鹿児島湾で薩摩藩とイギリスが激突。結果、喧嘩両成敗という形で和解し、交流を深めた彼らは、妙香寺で当時のイギリスの軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンのもとで修行を積み、日本初の薩摩バンドが結成された。その過程でイギリスの王室であるエディンバラ公が日本に来日するという報告が入り、歓迎しようとした彼らは「せっかく国賓を迎え入れるのに国歌がないとムードが出ない」ということで、当時の薩摩藩隊長大山巌に歌詞を提供させてもらい、大山巌は自分の歌である薩摩琵琶曲の「蓬莱山」の一節を採用することに決まったのだ。
〜薩摩琵琶曲「蓬莱山」とは〜
大山巌が提供した薩摩琵琶曲「蓬莱山」の歌詞を全文抜粋する。
「日出度みやな、君が恵は久方の、光の長閑(どけき)春の日に」これは薩摩小唄、薩摩長唄と幅広い年代に渡って愛されてきた薩摩の歌であり、縁起のいい文句を連ねるご祝儀の歌だった。そして、この歌詞を作曲したジョン・ウィリアム・フェントンは、明治天皇と来日したエディンバラ公に当時の「君が代」を聴かせた、というのが一連の流れである。
〜しかし、西洋調の曲は当時人気がなかった〜
当時の日本は長い間鎖国政策を敷いており、ようやく明治維新が起こって様々な西洋文化が入ってきたのは皆もご存知だろう。草履は靴に、照明器具は行燈に、着物が洋服に、和暦がグレゴリオ暦に変わって、日本の文化は最高潮に達した。しかし、長い間鎖国国家の中でガラパゴス的進化を遂げてきた日本人は西洋文化に馴染めず、ポップ調の当時の「君が代」は不評だったのだ。そして、それを受けた宮内庁の伶人林広守を中心とするメンバーと、イギリスのジョン・ウィリアム・フェントン後任であるフランツ・エッケルトが作曲し直し、天長節でその「君が代」が演奏されたのだ。
〜「君」は結局何を意味するのか〜
ここまで歴史を遡ってきたが、結局「君」とは何を指すのかイマイチまだ整理できてない人もいるだろう。だが、こうして振り返るともともと「君が代」は薩摩藩の歌から派生してできたものであり、少なくともそこの歌詞には「天皇を祝う」旨の内容は一切書かれていない。実際、原典となった古今和歌集の歌詞も「我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔の生すまで」という今の「君が代」の歌詞は酷似しているが、天皇の治世を願う歌詞ではない。つまり強引な解釈で日本政府は「君」を勝手に「天皇」とし、それを無理やり国民に押し付けているのだ。
〜最後に〜
ここまで長々と「君が代」の法解釈や歴史を見てきたが、今の新入生の門出を祝う入学式でも「君が代」斉唱を子供や教職員に一方的に押し付けている。思想信条、内心の自由は憲法で保障されているはずなのに、なぜか「君が代」の斉唱、伴奏を強制的に押し付ける。これは日本が人権後進国と呼ばれている理由にも一役買っているのではないか。人権意識のなさが滲み出ている。我々日本人の人権がないがしろにされている現実を直視し、日本政府にはもう一度「人権問題」について問いかけてみたい。実際、「思想信条、内心の自由」は憲法の何条に規定されているかと聞いて答えられる議員は一人もいないのではないだろうか。