秋の高校野球には、「あと一勝」という言葉がよく似合う。
夏なら、負ければ終わる。
だが秋は少し違う。
負けても、その先に春があるかもしれない。
だからこそ、一つの勝利が半年後の景色をまるごと変えてしまう。
慶應義塾高校にとって、そのことを痛いほど思い知らされた秋が、十年前にあった。
2016年秋。
正木智也、森田晃介、下山悠介らを擁した塾高は、神奈川県大会を勝ち上がった。
決勝の相手は横浜。
7対4。
横浜を倒し、神奈川王者として関東大会へ向かった。
関東初戦では花咲徳栄を9対1で圧倒した。
あと一つ。
準々決勝に勝てばベスト4。
翌春のセンバツが大きく近づく。
相手は前橋育英だった。
3対4。
あと一点だった。
エース森田は連投で最後まで投げた。
正木を中心とする打線も食らいついた。
それでも最後の一点が届かなかった。
関東ベスト8。
その後の選考で塾高は補欠となり、春の甲子園には行けなかった。
神奈川で優勝した。
横浜にも勝った。
関東でも一勝した。
それでもセンバツには届かない。
高校野球における「あと一勝」が、どれほど遠いのか。
2016年の秋は、それを教えた。
六年後。
2022年秋。
今度の塾高は、神奈川王者ではなかった。
丸田湊斗、小宅雅己、加藤右悟、大村昊澄、延末藍太。
後に高校野球史に名前を残すことになる選手たちがいた。
県大会では東海大相模を7対4で破り、日大藤沢との接戦も7対6で制した。
しかし決勝では横浜に3対6で敗れた。
神奈川2位。
六年前とは逆だった。
2016年は横浜を倒して1位。
2022年は横浜に敗れて2位。
ところが、本当に大切なのはここからだった。
関東大会。
常磐大高を5対3で破る。
そして準々決勝。
相手は埼玉1位の昌平。
ここで六年前と同じ場所に立った。
ベスト8。
センバツまで、あと一勝。
2016年の正木たちが越えられなかった場所である。
この試合、塾高は打った。
延末藍太が適時二塁打。
小宅自身も適時打。
丸田も長打で走者を還す。
13安打、7得点。
7対3。
六年前に届かなかった一勝を、ついにつかんだ。
関東ベスト4。
センバツ出場。
そして、この物語には続きがある。
彼らは翌春、甲子園の土を踏んだ。
そこで終わらなかった。
夏にもう一度、甲子園へ戻った。
そして2023年8月23日。
慶應義塾は107年ぶりに、夏の甲子園の頂点に立った。
振り返れば、あの全国制覇への道は、前年秋の昌平戦から始まっていたとも言える。
もし、あの準々決勝を落としていたら。
もし、「あと一勝」を越えられなかったら。
小宅や丸田たちの高校野球は、まったく違う物語になっていたかもしれない。
だから秋の一勝は面白い。
その時にはまだ分からない。
半年後、十か月後に振り返って初めて、その一勝の本当の意味が分かる。
そして2026年秋。
塾高は、再びその場所へ向かおうとしている。
今年のチームは、2016年とも2022年とも少し違う。
中心にいるのは渡辺英亜。
東海大相模との準決勝。
4回、左翼場外へ同点ホームラン。
延長10回。
3点を勝ち越され、誰もが苦しいと思ったその裏、塾高は追いすがった。
そして二死満塁。
最後に打席へ入ったのが渡辺だった。
左翼へのサヨナラ打。
6対5。
塾高は関東大会出場を決めた。
だが、まだ終わらなかった。
決勝。
相手は横浜。
県内公式戦43連勝中の王者だった。
横浜が3点を先行する。
3対0。
それでも塾高は追いついていく。
3対2となった5回。
二死一塁。
マウンドには小林鉄三郎。
打席には渡辺英亜。
二年前。
二人は違うユニフォームで、日本一を争っていた。
世田谷西シニアの渡辺。
中本牧シニアの小林。
2024年のリトルシニア日本選手権決勝では、小林が渡辺からタイムリーを打った。
あれから二年。
今度は小林が投げ、渡辺が打つ。
2ボール2ストライク。
6球目。
渡辺が振り抜いた。
打球は左翼を越えた。
逆転2ラン。
4対3。
横浜も意地を見せる。
6回に4対4。
それでも8回。
一死一、三塁。
打席には延末遵太。
延末が転がした。
スクイズ。
5対4。
これが決勝点になった。
慶應義塾、神奈川優勝。
2016年以来十年ぶりに、「横浜を倒した神奈川王者」として関東へ向かう。
今年のチームには、正木智也のような将来のプロ野球選手がいるのか。
小宅雅己や丸田湊斗のように、翌夏の甲子園を沸かせる選手がいるのか。
それは、今は誰にも分からない。
ただ、秋の段階の数字を見ると興味深い。
2016年には、森田晃介という明確なエースがいた。
関東初戦の花咲徳栄戦では7回4安打1失点。
続く前橋育英戦も連投し、9回を一人で投げ抜いた。
打線の中心には正木。
「森田が抑え、正木たちが打つ」。
チームの輪郭がはっきりしていた。
2022年は違った。
関東大会3試合のチーム打率は3割を超えた。
小宅が投げ、丸田が出塁し、加藤、大村、延末らが打つ。
絶対的な一人に頼るというより、誰かがつないで誰かが還す。
実際、昌平戦では13安打7得点。
打線全体で「あと一勝」をもぎ取った。
そして2026年。
今年もまた、少し違う。
湯本琢心という軸になる投手がいる。
東海大相模戦では8回を投げ、被安打5、8奪三振、1失点。
その後ろには福田遊大がいて、最後には渡辺をマウンドへ送ることもできる。
渡辺は投げるだけではない。
相模戦で同点本塁打とサヨナラ打。
横浜戦では小林から逆転2ラン。
一人で試合の風景を変えられる選手である。
しかし渡辺だけでもない。
西川翔真がいる。
矢口翔大がいる。
東修平がいる。
橋本周磨がいる。
杉森大輝がいる。
そして延末遵太がいる。
相模戦は6対5。
横浜戦は5対4。
どちらも一点差。
圧倒して勝ったわけではない。
苦しくなっても、誰かが次へつなぐ。
追いつかれても、誰かがもう一度前へ出る。
その結果として、最後に一点だけ相手より多く取っている。
ここに今年のチームの面白さがある。
考えてみれば、「一点」は塾高の秋を何度も分けてきた。
2016年。
前橋育英4-3慶應。
届かなかった一点。
2022年。
そのベスト8の壁を越え、センバツへ進んだ。
そして2026年。
東海大相模6-5。
横浜5-4。
今のところ今年の塾高は、十年前に届かなかったその一点を、二試合続けて自分たちの側へ引き寄せている。
だからこそ、関東大会の準々決勝まで進んだときには、少しだけ時計を巻き戻してみたい。
2016年。
正木智也と森田晃介のチーム。
神奈川1位。
関東ベスト8。
あと一勝届かなかった。
2022年。
小宅雅己と丸田湊斗たちのチーム。
神奈川2位。
関東ベスト4。
その一勝をつかみ、センバツへ。
そして、その経験を翌夏の全国制覇へつなげた。
2026年。
渡辺英亜、湯本琢心、東修平、延末遵太たちのチーム。
神奈川1位。
ここから先は、まだ白紙だ。
2016年の道を歩むのか。
2022年の道を歩むのか。
もちろん、野球はそんな二択ではない。
今年のチームには今年の物語がある。
だが、三つの秋を並べると、一つだけ共通するものが見えてくる。
秋の関東大会で必要なのは、評判でも、県大会の順位でもない。
目の前の試合を一つずつ勝つこと。
2016年は、その一勝に泣いた。
2022年は、その一勝をつかんだ。
そして2026年。
塾高は、もう一度その一勝を取りに行く。
もしベスト4に入り、春の甲子園への扉を開くことができたなら。
そのとき初めて、今日の横浜戦の意味も変わって見えるのかもしれない。
渡辺英亜が小林鉄三郎から放った逆転2ラン。
延末遵太が決めたスクイズ。
東海大相模戦の、3点差からの逆転サヨナラ。
あれは単なる神奈川県大会の名場面ではなかった、と。
2022年秋の昌平戦が、後から振り返れば107年ぶりの全国制覇へ続く道の入口だったように。
2026年10月1日の横浜戦もまた、何かの始まりだったのだと。
そう振り返る春が来るかもしれない。
十年前に届かなかった一勝。
四年前につかんだ一勝。
そして今年、もう一度取りに行く一勝。
塾高の三つの秋は、そこでつながっている。