前回の記事ではウィキペディア等の資料によると
堀内氏善が堀内氏虎の子として生まれ
現在の三重県熊野市周辺を治めていた有馬氏と当初、対立していたが
内紛により衰退した有馬氏へ養子に入った。
そして、父氏虎の死後、早くに亡くなった兄氏高の跡を継ぐべく
和歌山県新宮市周辺を治めた。
そして、有馬氏(榎本氏)との縁組で三重県熊野市を併合。
堀内氏善の弟 氏弘は大坂夏の陣で豊臣方につく。
堀内氏善は三重県志摩の九鬼嘉隆の養女を正室にする。
上記はあくまで推測であり、諸説ある。
なぜならば資料が乏しい。
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そして、私はそろそろ三重県方面の山城を訪問しようとして矢先に
コロナパンデミックが発生。
外出自粛宣言が発令されていた時期はもちろん行かなかったが
そもそも私は毎年、毎年、毎年、毎年、花粉症で2月~6月は
仕事のとき以外は外出しない。
タイトル画面 ▽
なんだか味気ないなぁと、お思いならもう少しカラフルにしようかの。
ちなみに上の文字は墨汁は一切、使っておらず黒のポスターカラーと
絵筆で書いたので非常に書きづらかった。
こういう写真があるでしょう。
和歌山県新宮市、神倉神社のごとびき様
上の写真をオマージュするのです。
神倉神社のごとびき様をはさんで、下が堀内氏善、上が那智三坊
(勝山城の廊之坊重盛、藤倉山城の実方院、石倉山城の文善坊)・・・のつもりです。
(那智山をどう攻略しようか)
堀内氏善にとっての当時(戦国時代)の那智山は、目の上のたんこぶだったのではないかしら。
つまり、これは『勝浦VS新宮』ではない。
戦国時代の『那智VS速玉』である。
着色するとこんな感じか。
着色が非常にデリケートであり暗すぎもせず、明るすぎもせず
雰囲気をこわさずに描くのは素人には至難の技。
炎に包まれているのは堀内氏善がお灯まつりに参加しているわけではなく
彼の野望の炎を描いているわけです(・・・そりゃそうだ)。
作画が難しいのう。
むずかしすぎて、ムズムズする。
おっさん(私)が戦国武将のおっさんを描き、そしてそれをさらに
不特定多数のおっさんが閲覧するという、ここのブログ。
むさ苦しいのう。
しかし、地方の豪族つまり小規模領主が中央政権(織豊時代=
織田信長、豊臣秀吉時代)の風習としてちょんまげを律儀にしているのか?と
聞かれれば、それははなはだ疑問であり、イラストとして描いてしまってから
あとで気付いたので細部のディテールはそっとしといて下さい。



