昨年(2014年12月3日付)で『那智勝浦町の勝山城』という記事を
書きましたが、その中で
『那智三坊は勝山城(同町浜ノ宮)の廊之坊
藤倉城(同町川関)の実方(さねかた=藤原実方)院
石倉山城(同町井関)の文善坊』
・・・という文章を書いております。
その中の藤倉城に今回、スポットを当てたい・・・と思いましたが
どうも跡形も無く消えているらしい。
跡形も何も無いものを探そうっていうのですから
これは相当な苦労でして・・・ハイ。
最初に言っておきますが、私はお城マニアでも、何でもないのです。
正直、しんどい。
今でも藤倉城が残っていたら、お城からはこんな風景が見られたでしょう。
現在の那智勝浦新宮道路建設によって
藤倉城跡地はごっそり消失したのでしょう。
しかし、私は思うのです。
道路を挟んだ両側の山に何か残っていないか。
それで両側の山を調べたのですが、やはり何も無かった。
天満中村側はほぼ岩山と言って
まちがいない。
そそり立った岩盤に木が生えている。
そんな岩山です。
多分、ゴウラじゃないかな。
大きな岩があるくらいで
特に何もなかった。
山頂から那智の浜方面を望む。
標高は低いが、そもそも登山をするような山ではない。
登りたかったら、登らんし。
ガケから落ちて死んでも知らん。
藤倉城は本当にバイパスのもくずと消えたのだろうか。
本当に、忘却の彼方に消失したのだろうか・・・
本当に
本当に・・・
・・・ ・・・ ・・・
・・・ ・・・
・・・
農業用の用水路でしょう。
これを辿っていけばいい。
なぜなら、山の中に入らなくても
見つけられる。
この用水路の源流は大谷川かな。
前回の勝山城の横に流れている小さな川は井谷川らしい。
『熊野別当本城藤倉城趾』と彫られている
ようです。
左側は『高坊臣三十六柱供養塔』。
熊野別当の高坊家の家臣、三十六人の御魂を供養する塔かな。
この二つの石塔はやけに新しい。
バイパス建設の時期と重なっているのではないかな。
五輪塔がいくつか見られる。
この石版は相当、古いようだ。
彫っている文字が読めない。
一番、上の文字は『咎(とが)』に
見えるような・・・
洞穴のようだ。
入りますか?
はい
いいえ
私は『いいえ』を選択。
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戦国時代、那智勝浦町川関の藤倉城(実方院 米良氏)は
丹鶴城の堀内氏善(1549年~1615年)と同盟を結び、
同町浜ノ宮の勝山城 廊之坊重盛(尊勝院 潮崎氏)と対立したようだ。