某日、熱心なお城マニアの観光客の方から尋ねられました。
『新宮市の丹鶴城を見てからここに来ました。
那智勝浦町の勝山城はどこですか?』
その方が持参してきた地図を見せられ、過去の記憶がよみがえりました。
「・・・ そういえば、昔、語り部の人と近くまで行ったな」と。
一応、補陀洛山寺の裏山と伝えましたが
実際、現場には行ったことがなかった。
PCで検索すると井戸の跡があるらしいので行ってみたが・・・
これがなかなか見付からない。
渡海上人の墓と平維盛(たいらのこれもり)供養塔しかない。
お墓・供養塔の裏に回ると最近、作られた同町浜の宮地区の
避難経路と一部(本当に一部だけ)合流する。
道をまちがえると小高い丘の上の神社のような場所に行き着く。
ここはちがう。
石碑があり
『山神 狐神』と彫られている。
ギョッとしてすぐに立ち去る。
この小高い丘の脇の林道を通る。
非常に分かりにくい。
しばらく歩くと謎の林道に上がる。
一部、舗装されていて、車は入れないはずだが
わだちが時々、見られる。
おそらく山の地主が舗装道路の入口のチェーンを自分ではずして
走っているのだろう。
なぜなら、井戸跡からかなり遠ざかって
いるから。
←だから写真のサイズも小さくしています。
しかし、大きな岩がゴロゴロ転がっている。
一つだけ立っているような石があったり。
じっくり見たが文字は彫られて
いなかった。
林道を終点まで行かず途中で掘切(ほりきり=地面を掘って切り通した堀)のような場所を見つける。
『見つける』といっても看板や道標は一切ない。
視界はあまり良くない。
周辺には大きめの石が多い。
北西のすみの方に昔の井戸の跡がある。
想像していたものより意外と大きいというか、広い。
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歴史 : 戦国時代に廊之坊重盛が築いたといわれる。
廊之坊は那智三坊の一人。
那智三坊は勝山城(同町浜ノ宮)の廊之坊
藤倉城(同町川関)の実方(さねかた=藤原実方)院
石倉山城(同町井関)の文善坊
その当時、勢力拡大のため勝山城を攻め落とそうと
新宮城(丹鶴城、別名 沖見城)の城主 堀内氏善(=ほりのうち
うじよし 1549年~1615年)が侵攻した。
堀内氏善の攻撃により勝山城は落城した。
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100%正しいとは限らないが、ウィキペディアを参考にした。
情報提供サイト : 『ちえぞー!城行こまい』
『ちえぞー往生こいたでいかんわ!』
ちえぞーさん ご協力ありがとう御座いました。