「米百俵」が全国に知られるようになったのは、昭和18年山本有三の戯曲「米百俵」の発表によるものである。長岡周辺にしか知られていなかった故事が、一躍全国に知られることになった。おりしも太平洋戦争は悪化の一途をたどり、4月には山本五十六がソロモン諸島の空に散った。こんな時代背景の中に山本有三の「米百俵」は誕生した。
当時、有三は「路傍の石」などで、国民的な作家になっていたが、ここで成城高校教授の星野慎一と運命的に出会う。星野は米百俵で設立された旧制長岡中学から東京大学文学部独文科をでた新進気鋭のドイツ文学者だった。有三も同じ独文科をでており、昭和14年に同窓のよしみもあり、「真実一路」をドイツ語に翻訳することから知り合う。おりしも太平洋戦争の開戦前夜で、有三は日独伊三国同盟に反対した海軍次官の山本五十六を尊敬していた。星野にとっても五十六は長岡中学の尊敬できる先輩であり、二人は意気投合する。
星野は五十六を生んだ郷里の偉人として河井継之助と小林虎三郎を熱く語り、五十六が尊敬して止まない河井継之助の執筆を有三に勧めた。有三は戦争に踏み切った継之助よりも、戦争に反対し食えないから学校を建てた虎三郎に関心を示した。「真実一路」が取り持った縁で、有三の「米百俵」が誕生した。
有三の現地調査により「米百俵」の逸話はすべてが事実に裏づけされたもので、先覚者小林虎三郎の実像を知ることになった。「真実一路」、三国同盟に反対した山本五十六、星野との独文科の同窓のいずれが欠けても、「米百俵」の誕生はありえなかった。
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