ちょっと前回は。年号・民族名の羅列になっちゃいましたね。個人的には年表とかまとめておりますので。 そこからザッと並べてみました。
さて。ここからが本番。
「ローマ連合」:ローマ人は紀元前390年の「ケルト来襲」以降。「自国防衛」を最優先で考える様になります。
ケルト人による「ローマ占領」「ローマ略奪」。「国家的なトラウマ」とも言えるかもしれません。
まず。「七つの丘」全てを囲む城壁が構築されます。 全長8キロにもおよぶ城壁には。見張り用の塔が各所に作られ、監視兵が常駐。
この「城壁の再構築」によって。都市国家としてのローマの「防衛力」は格段に上がります。「敵が城壁を囲んだとしても。防衛出来る!」と言う「安心感」です。
ローマが次に考えたのが。「城壁を敵が囲む」様な事態に陥らない様。要地に「砦」を建設すること。そして「旧ラテン同盟」諸都市にもまた、この「砦」の役割を担わせること。だったのです。
「ローマ市民権」保持者による「ローマ植民市」。そして。「ラテン市民権」保持者による「ラテン植民市」の建設。
まず。「ローマ植民市」の方の建設が先になります。これは当たり前ですね。当の「ラテン人」との抗争が継続中なんですから。。
そして「ローマ連合」が強固なものとなってから。「ラテン植民市」も建設される様になっていきます。
更に。ローマの代名詞とも言うべき「街道」の整備!
ローマ人が作った「街道」は政戦両略上の必要性から生まれたものです。特に「軍団」の移動をスムーズに行う為に。
軍事同盟の性格上。「ローマ連合」参加各国の防衛はローマが担います。
同盟国Aが外敵から攻撃を受けた際。如何に素早く軍団を援軍として送れるかが鍵となったのです。
日本の戦国時代。武田信玄の「棒道」なども有名ですが。ローマの各街道も「軍用道路」であり。また、各植民市・各同盟国とローマを有機的に結ぶ「政用道路」でもあったのです。
次回ぃ☆ヽ(▽⌒*)
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