歴史の話:名前「諱」(4) | youkiさんのブログ

youkiさんのブログ

ブログの説明を入力します。

「諱」:名を隠す。

と。言う意味において。古代の日本ほど徹底しているのも凄いことだと思うんですよね。

例えば。天智天皇の「中大兄皇子」。天武天皇の「大海人皇子」。
歴史的には「名前」として認識はされているものの。本当に「諱」だったのでしょうか?実は。古代において「諱」は徹底的に隠されており。通称だったのではないかと考えております。

聖徳太子の「厩戸皇子」とか?古代の「諱」は「隠されたまま」。私たちは「通称」を使って歴史を見ているのではないか?そう思うのです。

そこまで。追究を進めると時間もかかりますので。。

さて。「律令」を中国から取り入れたりする中で。「○○麻呂」と言う長い名前から一字・二字で表記する名前が日本でも使われるようになっていきます。

時は奈良~平安時代の初頭にかけてのことと思われます。

と言うのも

この時期。「皇族系図」を見ると劇的な変化が見られるんですよね。

例えば。桓武天皇の名は「山部皇子」。その次代平城天皇の名は「小殿皇子」。大和からの流れをくんだ土地・部族(乳母等後援となる氏族)に関係する名前を名乗る。

から。

嵯峨天皇の皇子女の名前は。「業良(なりよし)親王」「正良(まさら)親王」「基良(もとよし)親王」。女子では「仁子内親王」「正子内親王 」

と。いきなり変化するんです。現代の日本人の名前に通じる名前がここで生まれて来るんですよo(^-^)o。