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フルコミッションの営業を続けていたわたしですが、法人にするようにと税理士に言われ40歳を境に法人として起業しました。

 


それが今も続いていて、今期で12回目の会計年度を迎えます。


当時は株式会社を起こすのに1千万円の資本金と数人の役員が必要だったので、資本金300万円で役員がひとりでも法人化可能な有限会社として起業したのです。
 
今は有限会社がなくなってしまったので、かえって「有限会社であるということは、長い間会社として存続しているということだ。」と信頼していただけることになりました。 

何が幸いするかわからないのが人生ですね。


法人としても売上が億を越えてハワイに年に2回行けるようになり、値札を見ないでデパートで洋服を購入できるようにまでなってきました。


仕事がうまく回り始めると趣味で始めた占いも噂になり、「観て欲しい」と言ってくださる方が口コミで広がるようにもなりました。


わたしが離婚を経験してとても苦しい思いをしたのと、息子も同じように父親が居ない環境で寂しかっただろうという想いから離婚をしそうな夫婦を元の鞘に納めることには、とても注力しています。


相手の生年月日から、結婚相手に何を望むのかがわかります。
そして相手が何をすると喜んで、何をされると不愉快に感じるか、今の伴侶に対する想いや、本当はなにを望んでいるのかをひも解いていき、それを相談者にお話します。


代理で相手の心に届くように書いた手紙は数知れず(笑)
だけど、それが功を奏して固くなってしまった相手の心が氷解するから不思議でした。


占術は己を知ることに一番役に立ちますが、自分と他人の違いを知ることで相手を理解する手段にもなるのです。


当たるも八卦、当たらぬも八卦といった八卦見ではなく、太古の昔から脈々と続く、膨大な情報量の分析。

 

 

気が遠くなるほどの時間をかけて分析を続けた先達が残してくださった統計から導き出した智慧なのだと感じています。


そして、営業をしながら、占い師として少しずつ認知も得ていったのですが、どうしても学んだ通りの答えにならないというジレンマにまたもや陥りはじめました。


難波のN先生はご高齢になったため、奈良の御実家で隠居生活をされるようになりましたが都度質問を先生にお尋ねしました。


その毎に、

「中井さん、例外はどんなものにもあるから決めつけたらアカンよ」

と言われるのです。


わたしが占いの勉強を始めた大きな理由の1つに小学校のときに同じ日に生まれたリエちゃんと言う女の子と、わたしの人生の大きな違いの理由を知りたかったということがあります。


同じ誕生日だったら、同じような人生を送っても不思議ではないはず。


なのに、リエちゃんは素敵なご主人が養子に入ってくれていて可愛い3人の男の子にも恵まれて、とても愛にあふれる人生を送っていました。


しかし、わたしはとことん波乱万丈で不毛の結婚生活を送り、その後なりふり構わず必死で生きてきました。


頼れる父も夫も存在せず、男性に負けないような男前な女子になってしまったわけです。


リエちゃんは毎晩ご主人と息子さんたちと楽しく食事ができているのに、わたしは息子が小学校の間ほとんど晩御飯を一緒に食べた記憶がありません。
毎晩仕事で誰かと会っていたからです。


息子が5年生のとき、これではいけないと思って晩のアポはすべて断ることにしました。


毎日晩御飯の時間に家にいるようになると、
「お母さんが家にいて貧乏にならないの?大丈夫?仕事してきていいよ。ばーばとご飯食べるから。」
と言われてしまいましたが、息子の中でのわたしは仕事人として映っていたのでしょうね。


確かにお金はそこそこ入るようにはなったものの、わたしは息子といる時間を失い女性らしい楽しい時間を過ごすこともできず、このままの生活で本当にいいのかなと思う日が増えました。


仕事に、占い。
どちらも捨て難いですが、両方をこなしながら子育ても充実させて女性としても楽しむにはどうすれば良いでしょう。


「何がしたいのか?」と自問すると、占術をもっと学びたいという情熱が湧きあがってきます。


仕事も落ち着いてきて、自分がいなくてもビジネスが回るようになってきた時期でもあり、自分のための時間を作りやすいタイミングでもありました。


インターネットも普及してきたので、以前に比べて時間の使い方も効率的です。

いろんな占い師とのにコンタクトも取りやすくなりました。


そんな良き時代、43歳頃のことです。
運命的なご縁をいただいたのが、台湾人と日本人のハーフのH先生です。

 


先生の紹介記事では
「日本で弟子を取って自分の知識をすべて伝授したい。本場の華僑が使っている四柱推命を3名の方に教えます」

というものでした。


四柱推命を教える先生は世の中に多くいらっしゃいます。


実際に数名の先生にお目にかかりましたが、正直中身の薄さと金額の高さにびっくりすることも多々ありました。

なので今回も台湾人ということでとても興味を引きましたが、あまり期待せずに福岡まで会いに行きました。


ところがH先生は、わたしの誕生日から八字だけを書き出し、わたしのこれまでの人生をほとんどピタッと当てたのです。


「その人が本物の占い師かどうかを見抜くコツは、過去に起こった出来事がわかっているかどうかです。」
と、H先生はおっしゃいました。

どう見ても30代前半の若者の先生は、とても落ち着いていましたが10年間師匠に付いて学んだそうです。


自分の分析をしていただきながら、見方についても突っ込んだ質問してしまいました。

大概の占い師はこの時点で引くのですが、H先生は

 

「いつまでも運や星を書き出していると、いつまで経っても上達しませんよ。感覚で捉えることが大切なのです。」

 

と仰り、

 

「四柱推命は日本人が名付けたもので、世界ではそんな名前では通用しない。日本人の誰かが、数冊の本を訳して四柱推命として日本で紹介しているが、それは大きな世界のほんの一部。だから日本人の鑑定家は世界では通用しないのです。」

 

と言うのです。


そして、とても壮大な陰陽五行の宇宙観を教えていただき、自分の浅学に恥じ入る気持ちでいっぱいでした。


わたしはその場で、明らかに一回り以上も年下の先生に弟子入りをお願いして授業料も全額お支払することを決めました。


かなりの高額でしたが、とても価値のある内容でした。
H先生からは四柱推命のもとになっている「子平推命」を教えていただき、来日のたびに先生の滞在先に伺ったものです。


学んだことは占術の技術もさることながら、占い師としての心構えのようなもです。

 


命はその人が生まれ変わる以前の生きざまが現れるもの、それを越えることはできないことや、誰かの人生に必要以上に占い師としての本分を越えて首を突っ込まないこと。


絶対に霊能者になってはいけないこと。


勉強と陰徳を人の知らない所で慎ましやかに行うこと。


お金で自分の占術の精度を変えないとなど、まだまだ沢山あります。


華僑の人たちが大切にしている風水術や、人生を思い通りにする本物の奇門遁甲など中国から逃げてきたひとたちだからこそ知っている秘伝のことなどを学びました。


思い返しても、自分の占い師としてのステージが上がるとき、必ず不思議なご縁で師が現れました。


これも守護霊の働きなのだと、今振り返って感じます。


師匠縁はずば抜けて良かったので、ここまで多くの本物の占術を知ることができました。


それと同時に、営業の方にも大きな変化が起こってきました。


人との関わりの中で、自己啓発系のセミナーなどに一緒に参加しても、全然変わらない仲間の存在がとても気になってきました。


それぞれが抱えている「思いの癖」が、一体どこから来るのだろうか。


その根本を知って改善することができたら、どんな人も成功することができるだろうになっと思ってきたのです。


そんな中で、「内観」をやってみないかと言ってくださる方が現れました。
神ごともしてらっしゃる方で、神道系の滝行やさまざまな行をされていらっしゃる方です。


その方がおっしゃるには、
「自分の心の故郷である、お母さんにしていただいたことに心を向けるだけで、感情の癖が変わり、物事の受けとめ方が変わる。」
というのです。


人生にはさまざまな出来事が起こります。


良いことも悪いこともですが、そのできごとをどう「受け止めるか」という選択こそが、人生を左右するものだとおっしゃったのです。


最近では「毒親」という言葉もブームになって、自分の親から押し付けられた価値観に縛られて身動きできなくなっていたり、幼少期に受けた親からのDVや育児放棄などの経験がトラウマとなって自分の人生が上手く行ってない人などがクローズアップされますが、それとはまったく逆の発想のものです。


やり方はとてもシンプルで、幼少期からこれまでの人生の中で3年ごとに時代を区切り、お母さんに

 

「していただいたこと」
「お返しできたこと」
「ご迷惑をおかけしたこと」

 

の3つのテーマに絞って、ずっと自分の中にある記憶と対峙するというものです。


メモなどを取るのは一切禁止です。
携帯など外部と繋がるものも一旦は取り上げられ、真剣にそのことだけに集中します。


今では企業研修などでも取り入れられ、東横インなどでは社員研修のために内観施設まで建てられているほどです。

 

 


正直、わたしは母親がとても嫌いでした。

 


戦時中に生まれたので中耳炎を放っておかれ、それが悪化して耳が遠いのもあり、自己中が服を着て歩いてるような人でした。

 

そしてとても感情的で、自分の感情がぶれると子どもたちに当たりちらし、上手くいかないことのすべてを誰かのせいに平気でします。


家にゴキブリが出たのも、弟のおねしょが治らなかったのも、全部わたしのせいだと平気で言うような人です。


そんな母親に対して
「してもらいたくても、してえなかったこと。」
というテーマだったら、ナンボでも言いたいことが溢れてきます。


でも、

「していただいたこと」

となると、まったく思い付きません。


最初の1日目は眠気が勝り、集中して内観ができませんでした。


2時間ごとに来る面接者にも
「何も思いつきません」

としか報告できない始末。


2日目に入ってもすべく記憶が蘇らず、ご飯作ってもらったり、洗濯などをしてもらってはいたけど、そんなの親なら当たり前だしと傲慢な考えしか見つかりませんでした。


毎晩他の参加者とその日1日にした内観の感想をシェアするのですが、参加者のほとんどが号泣します。


1つ小さな「していただいたこと」に気が付くだけで、その後の世界の「見え方」が180度変わるのです。


心がなぎのように穏やかになって、中庸を保てるようになる方法です。


真剣に自分と母親との関係に向き合って、自分の心の大改革をしようと決心した瞬間でした。


2泊3日のプチ内観研修の2日目の夜は、徹夜で集中して内観してみようと決心。


畳の部屋でひとりで内観していると、夜中の3時頃に無数の人に取り囲まれているような感じがしました。
それはそれは、すごい人の数です。


その気配は小さな光のような存在となり、6畳ほどの部屋に入りきらないくらい集結してきます。


「あっこの人達はご先祖さまたちだ。」

と直感的に感じました。


わたしに命を繋いでくださったすごい数のご先祖さま達が、大応援のためにわたしが内観していた部屋に集まってきてくださったのです。

 

 

自分の周りには、これだけ多くの光の存在がいて生まれたときからわたしを応援してくれていたのだと知った瞬間でした。


これはわたしにだけ特別に起こることではなくて、どんな人にも自分の後ろには守護霊をはじめ、ご先祖さまたちが応援していてくれています。


だれが先祖か良くわからない状態の人でも、先祖がいないひとはいないのです。


その人たちが自分の周りを囲って、いつも見守っていてくれています。


そうなると、自分の両親は「目に見えるご先祖」という位置づけになります。


当然、拝むべき存在だったのだという閃きを、この合宿で得ました。
感覚的にいつも見えない存在たちが、自分を取り囲んで守っていてくれていると思うと、とても心が強くなります。


きっとなんとかなる! 大丈夫! と思えてきます。


このとき以来、繰り返し内観をすることで、少しのことで怒ることもなくなり人から向けられる怒りや嫌悪感などに同調しなくなりました。


ひとは自分の感情のコントロールに四苦八苦します。
トラウマだと思い込んでいる過去のできごとに囚われていたり、好きな人に拒絶されて傷ついたり、人からの八つ当たりの怒りをぶつけられて心が乱されたり。


そんなできごとからくる、心の動揺が起こらなくなるのです。


「自分の機嫌を自分でとれる。」
そして、わたしは本当は愛されていたのだという体験によって、最高の自己肯定感を得られるようになるのです。

以来わたしは、毎月内観を受け続け、わたしも「お世話係」をさせていただくようになりました。


同時に、そのときの指導者であった師の影響により、日本中の神社へ参拝するようになったのです。


今のような神社ブームが起こっていたわけでもなく、神社はどこも閑散としたものでした。
伊勢神宮や、出雲大社でさえ人はまばらでした。


今から10年ほど前のことです。


そのときの師匠について、日本中の神社や神々が降りた場所などで「神ごと」をして歩きました。


このときから、いよいよ神道にスイッチが入りだしてきたのです。


内観指導をしていただきながら、その師匠、O先生と仲間たちと神道の勉強を始めました。


神界で起こっていることが、この人間界に起こること。
その神々をお鎮めするために、三次元でできる神ごとなどを学びます。


先生が呼ばれる神社で一緒に祝詞を上げると、必ず神々が祝福しているのだとしか思えない「外応」が起こります。


石川県の白山比咩神社では、晩秋だったのに白く輝く紋白蝶が現れて祝福してくださったり、出雲でのご神事では、宍道湖に7つの神柱が立ったり。


高千穂では太陽の左右に虹が2本立ってかかったり、滝行の際に撮った写真には大きな龍神が写って参加者全員がその鱗の中で行をしていたり、、、


とにかく枚挙にいとまがないくらいの、不思議なできごとの連続でした。


だけど、1つ1つに心を囚われてはいけないと教えていただき、淡々とご神事をこなすのです。


自分が特別なことをしていると思うと、そこに「魔」が入り、自分が魔物になってしまう。


人間に生まれたからには、7つの色だけが見えれば良いこと。
見えたり聞こえたりするようになると、間違った方向に進んでしまい、ひとではなくなってしまう。


魔にやられると生まれ変わりが難しくなってしまうことも学びました。


世界は「寸善尺魔」
邪で魔的なものが10倍多いのだと、再三指導されました。


このときの体験が、2冊目の著書「呪いが解けちゃう! すごいお清めプレミアム」の原体験となったのです。


内観をしつつ神ごとを行い、占いの勉強もしながら、フルコミッションの営業で日本一を継続。

すると、月収も500万を越えるまでになりました。


離婚してから6年で起こったことです。

人生が根底から変わったように感じた毎日でした。
そんな中で、わたしには1つ夢ができました。

 


細木数子さんのように、
「自分の独自の占術を作って、その占い本を毎年だし続けたい。」

というものです。


本を出版したいっという思いを周りの人たちに話していたら、出版プロデュースをしてくださる方とのご縁ができて、その日のうちに出版社をご紹介いていただきました。


それが中経出版のMさんという編集者です。


Mさんはわたしが書いた企画書に目を通すなり、「これ面白い。」と言ってくださいました。


わたしが毎日多くの人に会って行くなかで感じた「上手く行かない人の法則」を体系化した内容です。


こんなことやってるひとは人生が上手く行かないんだよなと観察したことを統計取ってまとめて5章に分けました。


なかには、これをやっていると上手く行くっというお財布術も綴り、そのときの原稿が1冊目の著書のベースになっています。


「是非これを出版会議にかけて出版しましょう」

と言っていただき、その後、本のタイトルはMさんの案で「白い財布の秘密」になりました。


しかし、編集長からのOKもいただき、本の装丁も決まり、中の目次も決まり当時の有名著者さんの推薦もいただき、いよいよ出版できそうとなったとき……。


最後の出版会議で、企画が「ボツ」になってしまいました。

フルコミッションの営業で扱っていた製品が水に関するものだったので、それが原因で出版社にクレームが来ると困るからという、なんとも理解できない理由でした。


Mさんもプロデューサーの方も、わたしも、とても落ち込みました。

 


その年は平成19年。
亥年です。
「亥」はわたしにとって天敵の五行でした。


やはり運が味方してくれていないと、こんな結果になるのかと落ち込みました。


その後も追い打ちをかけるように、信じていた弟分のような男性に出資していたお金が詐欺だったとわかり、1千万のお金がなくなりました。


そして何もやる気がしないまま、その年の11月に国税の調査が会社に入りました。


取引していた会社が悪質な脱税をしていたので、その反面調査に会社に税務署職員が来たのです。

奇しくも11月は「亥月」です。
12年に1度しかない亥年の亥月に税務署に入られ、フルコミッションの営業先との取引会社の信用もなくなってしまったので、その時点で300万くらいあった月収を手放してしまいました。


出版の夢も消えて、収入源も失った現実に不安感で押しつぶされそうになりました。


とき同じくして、内観と神道の師匠だったO先生にも変化が現れだしました。
わたしに対してストーカーのようになってきたのです。

 


電話に出るまで、1日100回以上のコール音が続き、突然家に来てパソコンや携帯電話を壊されたり、「お前を育てやったのは俺だ、金を出せ。」とさんざん脅されました。


警察にも相談しましたが、実被害がないので取り合ってもくれません。

 

今思うと、『魔にやられた状態』なのですが『正神』に近づくと、同じくらい力のある『魔神』もそれを阻止しようと攻撃して来ます。

 

神ごとは常に命がけです。『神光』を強く浴びるほど、反動で『魔神』からの注目も受け、攻撃されるのです。

 

先生は1匹狼でしたから、露払い出来る様な弟子や仲間がの人間が居たら、良かったのになと、後になって常々思ったものです。

 

この時の体験から、『バランス』の大切さを学びました。何かに偏ると、その反動は必ず来るのです。常に中庸である事が大切です。

 

口で言うのは簡単ですが、この中庸をキープするのは、なかなか難しいことでも有ります。

 

 

 

 

 

そんな信頼していたO先生に執拗に攻撃を受けるようになり、そのうちストレスから起きられなくなってしまいました。鉛の鎧を着てるように体が重くなって、1日15時間くらい寝てしまうほどです。


そしてまた、毎日死にたいと思うようになってきました。


心療内科に診察にいくと、「うつ病」と診察され、毎日湧き上がる死にたいという思いと戦いながら、絶望という言葉しか思い浮かばない毎日を送ることに。


またわたしは、10代のころの自分のように「死にたい病」と共に生き続けなければならないのかと思うと、目の前が暗くなりました。

 

毎日が冷たい池の底にいるような気分でいっぱいだったと覚えています。

 

 

それは、平成20年のできごとでした。
 

 

 

【耀香ストーリー】わたしのお役目