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父を亡くした矢先のプロポーズを受けて、一周忌を終えて喪が明けたら結婚式をする段取りとなりました。


我が家は代々神道の家なので、一般的な一周忌のことを「一年祭」と言います。

 


神道には戒名がなく、生前の名前に「命みこと」が付きます。


神道では亡くなったひとはみな神さまになると言われます。


だから、男性は○○比古命(ひこのみこと)という名前になり、神さまになるおくり名となるわけです。


そして法事などの御供養ごとにも「祭」が付きます。
お葬式も「神葬祭」と言いうのです。


神道では、すべてが「おまつり」なのです。


 


結婚式の3ヵ月前の大安の日、わたしたちは「結納」をすることになりました。


予定通り、近くの料理屋さんで結納をした直後のことです。


彼に、異変が起きました。


彼から

「突然変な発作が起きた。直ぐに来てくれないか。」

と電話が来たときは、背筋が凍ったものです。


なにぶん、父を亡くしたばかりでしたし、結納も済ませたばかりです。
この先の幸せを、それなりに思い描いていたわけですから、絶望の気配に恐怖を感じない人はいないでしょう。


わたしはとにかく驚き、慌てて仕事の予定をキャンセルしてから、彼のワンルームマンションに向かいました。
当時ひとり暮らしをしていた彼の身を案じ、必死に走りました。


駆けつけると、そこには顔面蒼白の彼が力なく横になっていました。


車を運転中にパニック発作を起こし、死ぬかもしれないという大きな恐怖を味わったことで心身が疲弊してしまったのです。

 


そしてこの体験がトラウマとなり、彼は車に乗れなくなってしまいました。


それ以降、ひと月足らずで彼は会社に行けなくなり、側にいて欲しいとわたしに懇願するので家にも戻れません。


一緒にいるあいだは、あちこちの内科をふたりで回りながら治療法を探す日々。


ほとんどの病院では、ストレスから来る「自律神経失調症」と言われました。


安静にしていても回復の兆しが見えないまま、結婚式が近づいてきます。


わたしは結婚を延期しようと提案したのですが、わけのわからない不安な状態の中でひとりでいたくない、とにかく結婚して欲しいと言われ見捨てることができませんでした。


実は彼との結婚生活には、いくつかの心配ごとありました。


付き合っているときからとてもケチだったことや、嫌なことを見ないように逃避する癖、約束を守らないルーズな面が不安で5人の占い師に相談したほどです。

 


4人の占い師は口を揃えるように

「この男性は誰かを幸せにする人じゃないから辞めなさい」

と言いました。


そんな中、ひとりの韓国人占い師が、


「あなたは暴力をふるう男性か、変な病気をする男性としか結婚できない。この男は変な病気をするが暴力は振るわない。結婚は苦労するが子どもを産まないといけないから、ここで一度結婚しなさい。」


と、具体的なアドバイスをしてくれました。奇しくもそれが的中してしまったようですね。


不安を抱えながらではありましたが、3年も付き合った情が勝り、そのまま結婚式を行いました。


無事に結婚式を終え、命がけで行った新婚旅行からも戻り、少しは平穏な生活を送れるかと思っていたのですが、彼は相変わらず仕事を休みがち。


不安な毎日でした。


しかし彼の治療に、新たな希望の道が見つかりました。
これでわたしも、すこしだけ肩の荷を下ろせると安堵したものです。


彼は大学病院で処方された抗不安薬を飲みながら、仕事に行けるようになったのです。

 


そして、やっとついた診断名は「パニック障害」

パニック障害とは
パニック発作といわれる、急性の強い不安の発作を繰り返す症状を特徴とする病気です。パニック障害は、のちに述べるように、特別な原因やきっかけなしに急性に発症し、パニック発作を繰り返すことや、不安のため一人で外出したり乗り物に乗ることが困難になること(広場恐怖)、薬がよく効くことなどが特徴です。
引用元:yahooヘルスケア



昨今ではパニック障害や、パニック発作という言葉を良く耳にします。
患者による苦しい体験談なども、ネットの検索などで簡単に知ることができるでしょう。

でも当時はインターネットなどなく、あってもポケベルの時代です。


情報を集める手段は本を読み漁るか、足であちこち回るしかなかったのです。


やっと病気の正体も判明したので、これで改善されるのかと思いましたが、それ以上劇的に良くなる気配は無く一進一退。


そんな中、わたしは妊娠しました。
後にも先にも、人生で初めての体験です。


つわりはひどいものでした。


しかし

「いつ発作が起きるかわからないから、側にいて欲しい」

と言われ、実家にも帰れぬソフト軟禁状態な妊婦生活を余儀無くされました。


自由がきかない息苦しさはありましたが、どんどん大きくなるお腹に愛おしさも膨らみます。


妊娠中に読んだ本の中に、
「母親のお腹にいる赤ちゃんと母親は、脳のある部分がそれぞれ繋がっているので、テレパシーで会話できる」

ということが書いてありました。


不思議な一文でしたが、お腹にいる赤ちゃんに
「お名前はなんて言うの? なんて名前にしたら良いか教えてね。」
と話しかけました。

 

すると1度は感覚的に、あとの1度は夢で同じ名前を教えてくれました。

これは幼少期以来の不思議な体験のひとつです。


検診のときも、不思議な体験をしました。

 


エコーでお腹の状態をみたとき、赤ちゃんは手のひらを握った「ぐー」の状態だったので「パーにしてみて」と普段通りに話しかけたら、赤ちゃんは本当に手を広げてくれたのです。


このときの会話の映像は、ビデオで残っています。
お腹の中にいるときから、赤ちゃんの耳はちゃんと聞こえているのだという証明です。


もしかしたら、テレパシーなのかもしれません。
いずれにせよ、お腹の赤ちゃんとお母さんは気持ちが繋がっているということに違いありません。

 

極めつけは、息子が生まれる日の朝のことです。


7時頃から洗濯物を干していたら、
「たっくんお昼に生まれるよ。」

と教えてくれたのです。


言葉で聞いたのではなくて、感じたのです。


これは赤ちゃんと一心同体になっているときにしかわからない感覚的なものなのですが、これこそテレパシーだったと思います。


「初めての出産で、そんなに早く産めるわけないよ。」
と内心思ったのですが本人の宣言通り、お昼の12時02分に元気に男前な息子が生まれてくれました。

妊婦と胎児の関係
おなかの中で新しい命が芽生えた瞬間から、ママと赤ちゃんはテレパシーでつながっています。赤ちゃんは『ここにいるよ!』と一生懸命ママに信号を送っています。
さらに胎児は、おなかの中でママの五感を通して、ママが見たり、聞いたり、匂ったり、味わったり、感じたりすることすべてを、テレパシーを通して受け取っています。ママだけに与えられた特権です。
引用元:うっぷす

 


このときの体験から、赤ちゃんは自分が産むのではなくて本人が決めた時間に、本人の力で生まれてくるのだと感じました。


このことから、わたしは個人的にこう思います。
自己都合で出産の時間を操作するのは、自然の摂理に反することだと。


わたしの人生における、たった1度の妊娠出産体験でしたが、とても濃い妊婦生活だった思います。


生活のことはともかく、妊娠という経験そのものは、20年以上経ったいまでも「楽しかった」という感覚しかありません。


女性にしか経験することができない、ありがたくて尊い経験です。


人間の臓器の中で「宮」が付くのは、「子宮」しかありません。


古神道の師のおひとりは、常々

「神さんは女にしか降りひん、それは子宮があるさかいやで。」
と仰います。

 


「子宮」だけが、新しい命を誕生させられる神聖な臓器なのです。


そんなこんなで始まった、初めての子育て。


新米ママとなったわたしは誰も助けてくれる人がいない中、育児書通りに行かない子育てにストレスを抱えながら、ひとりで子育てをしていました。


唯一、頼りとなるはずの夫は、毎日パニック障害と戦いながら仕事に行っていたので、とても子育ての協力などを求められるはずがありません。


仕事に行ける状態を維持できるだけ、マシでしたから。


そうこうしながら息子も大きくなり、ベビーカーで外に出られるようになると、息子の存在が同じマンションの住人と仲良くなるきっかけを作ってくれました。


これは息子が愛想の良い子で、周りの住人の方に微笑んだり、タッチしては喜ぶ明るい性格だったおかげです。


気づけば、12部屋ほとんどの住人と交流することができるようになり、ほんの少しですが、わたしのストレスが軽減したものです。


ママ友や、マンションのベテランママ達のサポートを得ながら、すくすくと育つ息子の育児を楽しめるようになりましたが夫の症状は悪化するばかり。


仕事があるウィークデイはとても沈んているのですが、休みの土日になると途端に元気になります。


そして日曜の夕方になるとまた沈み始めます。


問題は、家計にも影響しました。


元々浪費癖があり、車や時計など良いものを見る目だけはあった夫です。


懸念通り、ストレスから高価な物を欲しがる癖も強まり、給料を使い込みはじめます。


給料だけではありません。


独身時代に貯めた貯金の500万円にも手を出してしまい、結婚生活わずか6年の間で貯金は底をついたのです。


ひと月の食費を、1万5千円でやり繰りしなければならないくらいの貧乏生活でした。


そのときの体験があるので、今でもいざとなった場合、食費を切り詰めた節約生活をする自信があります。


さて、
お金はどんどんなくなり、夫の症状は悪化するばかり。

そんな日常の中で、わたしは知らぬあいだに肉体に疲れを溜め込んでいたようです。


たしか36歳のときです。
原因不明の高熱が続きました。

 


近くの病院では風邪と診断されたのですが、3日経っても40度の熱が下がらず、解熱剤を飲んでも一時的に下がるだけで、またすぐに40度に上がるのです。


薬もいよいよ効かなくなり、まったく熱が下がらず、意識も朦朧としていました。


それなのに夫は、テレビをみて大声で笑っています。
正直、「このまま死んじゃうのかな」と思った瞬間でした。


でも、かわいい息子を置いて死ぬわけにはいきません。
死にたい病だった、10代の頃とは背負っているものが違いますから。


しかし、わたしはとうとう耐えきれなくなり、夜中に病院の救急外来に電話をすることにしました。


マンションの裏にある病院なので救急車を呼ぶわけにもいかず、40度の高熱の中、這うようにして病院に向かったのです。


当直の先生は、わたしの尋常ではない様子を診て、「これはおかしい」と判断されて消化器専門のお医者さまを呼びに、その先生の家まで行ってくださいました。


朝方、その先生に診ていただくと、カンピロバクター菌による重度の食中毒に罹患していたことが判明します。

カンピロバクター菌とは
カンピロバクター属は家畜や家禽(鳥類に属する家畜のこと。ニワトリ、ウズラ、七面鳥など)の腸管や生殖器に感染する微生物です。主な症状は胃腸炎で、潜伏期間が2~5日間と他の胃腸炎よりやや長い。症状は下痢、腹痛、発熱、悪心、嘔吐、頭痛、悪寒、倦怠感などであり、他の感染型細菌性食中毒と酷似していますが、カンピロバクターは1日最高便回数が多く、血便を伴う比率も高い。
引用元:感染症予防接種ナビ

 


あと半日遅かったら、腸が破れて命に関わる状態だったとのことです。


自力で深夜に病院に行ったことと、当直の先生の機転のお陰で九死に一生を得ました。


朝の6時になると、看護師さんが自宅に電話をしてくださり、
「奥さんが大変危険な状態ですのですぐに病院に来てください」
と伝えたそうですが、夫が歩いて5分の病院に来たのは3時間後でした。


いろいろと言い訳をしていしましたが、わたしの命に関わるくらいの出来事が降りかかっても、この人は何とも感じないのだな思い知らされたできごとです。

 


このときから、「離婚」の文字が頭をよぎるようになりました。


心が通い合わない人間と2人でいる孤独感は、ひとりでいる寂しさとは比べ物にならないくらい深くて冷たい絶望的な孤独感です。


夫は

「パニックの発作が起きたら怖いから、近くにいてくれ」

というのに、わたしの身に危機が起きたときに寄り添う気持ちがないことを知ってしまうと、愛情も薄れてしまうのがひとというもの。


だけど、当時息子はまだ4歳。
息子が20歳になるまでは、この状況で頑張るしかないのだと自分に言い聞かせ、心を奮い立たせました。

重度の食中毒の治療は、3週間の絶食治療でした。
毎日点滴だけで生活をするのです。


下痢も続いていたので、15分毎にトイレに駆け込み、微熱とも戦い続けます。


当初は食欲もなく、なにも食べられなかったのですが、1週間を過ぎるころには、食事をしている同室の人を見ては、
「食べないと生きられないなんて可哀そうな人たち」
という感情に支配されてきました。


同時に、体験したことがないくらい頭の中が澄みはじめ、宇宙と繋がる感覚すら覚えたのです。

 


インドのヨガの行者のなかには、プラーナを吸うことで、食事や排泄をまったくせずに生きている人がいます。

プラーナとは
主に古インドのヨーガや日本の古神道によって説かれる生命エネルギーであり、一般的に云われる気やレイキとは異なる。プラーナは人の体だけではなく山や川、滝や草木、その他鉱物など、あらゆる森羅万象に存在し、私たちの心身に大きな影響を与えている。
引用元:ふるゆら

 


あのときは、その感覚に近かったのかもしれません。
不思議と欲がなくなった、無我の境地に近づいた体験です。


だけど、3次元で生きるということは、食べることも体験として神さまから与えられていることですので、プラーナを吸って生きる生き方は、一般人が目指すべきものではないと思います。


3週間目になると、先生から完全粥食から、徐々に固形の食事を摂るようにと言われ、にわか仙人の境地から、またまた三次元の欲深い世界に舞い戻ることになります。


根気強い治療のおかげで、1ヶ月後に退院することになったのですが、ここでも問題に見舞われます。
夫がとうとう、仕事に行けなくなってしまったのです。


マンションの家賃も払えず、古いマンションへの引っ越しを余儀なくされ、生活に困窮する毎日の再来です。


病み上がりで体力気力が削られる日々でしたが、ここでもまた、不思議な経験をしました。

ある日、4歳半の息子が
「パパはママを幸せにしないから、ばーばの家で一緒に暮らそう」
と言いうではありませんか。

 


わずか4歳の子どもが言う言葉ではないと、ハッとしました。


直感的に、これは本人が言ってるのではなく、神さまが息子の口を使ってわたしに仰ってるのだと感じました。


また、不毛な結婚生活をこのまま送るのではなく、自分の足で根を張って、息子と一緒に生きていけと言われてるような気持ちが強くなったのです。


それまでのわたしは、誰かに幸せにして欲しいと思う、他力本願な考えだったのでしょう。


だから、いつまで経っても幸せになれないのだなと、息子の一言で気が付きました。

けれども現実的には実家には弟夫婦が住んでおり、弟嫁はわたしが実家に帰るとなったら離婚すると、すごい勢いで弟を攻めたてたようです。


離婚したとしても帰る実家はなく、定職にもついていないので生活の目処も立ちません。


どうやって生きていけば良いかと途方にくれるなか、またしても「占い師」さん方に相談することになりました。


結婚する前は3人の占い師から止めてとけと言われ、ひとりの占い師に、「仕方ないから今の夫と結婚をしろ」と言われたわたしです。


ほぼほぼ、この結婚はだめになると言う予言が当たったので、離婚の相談もまた、占いによって決めようと考えたわけです。


友人たちに紹介してもらった占い師さんに、片っ端から連絡をとり、今の現状と離婚したほうが良いかを聞いてみました。


すると、今度はそれぞれがまったく違う占い結果を伝えてきます。
ひとりの方は

「離婚しないでそのまま我慢していなさい、息子が大きくなるまで辛抱しろ」。


そうかと思うと、
別の占い師は

「子どもを置いて出て行って再婚しなさい」

とか、
「離婚しても良いが子どもがグレる」

など、
占いというよりも個人的な主観で意見されてるのかなと思える、納得できない占い師さんばかりに遭遇してしまいました。


毎日占い師さんの所へ相談しに行く状況下でしたが、明るい未来への発見もありました。


いつまでも、占い師に大切なことを決めて貰う人生はやめて、自分で自分のことがわかるように、わたしが占いの勉強をしたら良いのじゃないだろうかと思ったのです。


それができるようになったら、占い師に人生を翻弄されることがなくなるので、自分で観られるようになりたい。


そう、強く思うようになったのは、間もなくのこと。


運が良いことに、占いのために毎週京都から来ていた同性のK先生に、四柱推命を教えていただけることになりました。


勉強のスタートと同時に離婚も成立。

 


眼鏡メーカーの経理事務として、就職することもできました。


これでなんとか新しい人生への船出ができたと思ったのですが……。
人生は山あり谷あり。
仕事面はすぐに暗礁に乗り上げてしまいます。


正社員として入社した会社の社長は韓国人で、女性社員にセクハラしまくる暴君のようなひとでした。
奥さんのほかに愛人がいて、愛人の子どもは2人。


さらに、一緒に住んでるのはまた別の若い愛人だそうです。


プライベートは本人の問題としても、経理をみているので、会社の行き先も大方の想像がついてしまいます。

債務超過で、とても1年先まで持つとは思えない経営状態でした。
会社が倒産なんてことになると、経理事務のわたしの仕事も大変になると思いタイミングを見計らい退社することにしました。


四柱推命の勉強の方も、K先生から習うことはとても少なく、学ぶことがなくなってしまいました。


そして、教わったことにも段々と疑問を抱くように……。


星と五行がわかるようになってきたことで、自分の周りにいるひとたちを占ってみましたが、習ったことに該当しないのです。


なぜうまくいかないのか、個人レッスンで先生に質問をすれば、「わたしに失礼なことを言うな、母に謝れ」と怒られる始末。


なにが失礼にあたるのかわからなかったので、わたしは謝らなかっのですが、これが良くなかったのですね。


わたしは「破門」扱いとなってしまいました。


一緒に習っていた他の生徒さんたちにも、わたしは恩知らずで礼儀のない人間だとメールで連絡が回ったそうです。


よくよく聞くとKさんは母親に習っただけで、とても浅学の先生でした。


見る目がないと言われてしまうかもしれませんが、習うこと自体が初めてでしたので、これも良い経験です。


でも、実際はかなり憔悴しました。
離婚して1年もしない間に仕事をなくし、心の拠り所にと習った占いを学ぶ場所まで失ってしまったのですから。


それでもわたしは諦めませんでした。


習うのがうまくいかないなら、独学で占いの勉強をすれば良いと思い金沢で一番大きな書店で、東洋占術に関する専門書を買い漁ることにしたのです。


全部で20冊くらいだったでしょうか。
これをすべて熟読して、わたしが疑問に思っている四柱推命の観方の答えを導き出そうと思ったのです。


その中にあった1冊の本の中に、わたしがK先生の所で習ったことに対する疑問の答えを見つけました。


答えを教えてくださったのは、15年前まで大阪の難波で鑑定されていた50代後半の男性、N先生でした。


それからというもの、わたしはその本を繰り返し拝読し、わたしが疑問に感じている五行の観方と神殺などの質問や、元命に対する柔軟な観方に感動したことなどを便箋7枚にしたためて、大阪の事務所に送りました。

 


返事を期待したものではなく、ファンレターのような気持ちで送ったものです。


すると3日後、なんとN先生から直接携帯電話へ着信が!


先生の親身な対応に、とても感動しました。
その際、わたしは自身の個人鑑定をお願いすると同時に指導をして欲しい、真剣に弟子入りさせて欲しいとお願いしました。


それから1ヶ月後、わたしは福井県からひとりで電車にのって、大阪へ向かいました。


病的な方向音痴で、田舎者なこともあり、都会の難波まで行くのが大変でしたが、この機会を逃すと求めている占いの世界が閉ざされてしまう気がして必死だったと覚えています。


そのとき、大阪駅の地下の古書店で偶然見つけて買った安倍泰山の古書の1冊は、今でも記念に大切にしています。


N先生は、もともとは大手住宅メーカーのエリートサラリーマン。
でも、趣味で始めた占いの世界に魅せられて、独立してカルチャーセンターなどでも教えていらっしゃる方でした。


わたしは先生とお会いして、大変だった結婚生活や、幼稚園児を抱えるシングルマザー特有の、これからの生活に対する不安についてを相談しました。


また、占い師に翻弄されるのではなくて、自分で自分の人生の選択をするために占いの勉強をしたいという想いも熱くお話しました。


するとN先生は、


「わたしも、母ひとり子ひとりで生きてきました。父親は戦死し、母は再婚もせず、赤ん坊だったわたしをたったひとりで誰にも頼らず育ててくれました。

 

わたしの母にできたことが、中井さんにできないわけがない。今は時代も恵まれている。国も周りも助けてくれる環境だ。


別れた夫に養育費など請求しなくても充分やって行ける。その後ろ姿を見て、息子さんも勝手に育つ。あなたはやれる人だから頑張って」

 

と、背中を押してくださいました。

 


そして、大阪で開催される勉強会に通うのは大変だろうからと、月に2度、資料と勉強会での様子をテープに吹き込んで送ってくださるとのご好意を受け、占いの勉強を再開したのです。


今思い起こしても、N先生は人生の大恩人です。
そのテープを擦り切れるほど聞きながら、毎月必死に、懸命に学びました。


占いの道が開けたところで、仕事面も変化が欲しいところです。


気づくとわたしも40歳の手前となり、正社員で働くことは難しく音楽教室の講師だけで息子との2人暮らしも厳しくなってきました。


そんな折、フルコミッションの営業の仕事をしないかと誘われました。

フルコミッションとは
「完全歩合制」のこと。働く人の仕事の成果に応じて賃金が支払われる給与形態です。一般的に、企業に所属することなく、不動産・保険・通信回線の営業や、フリーランスのクリエイター、タクシードライバーなどの職種で、フルコミッション契約を結ぶ人が多い。メリットは報酬です。フルコミッション営業の場合、仲介手数料の40%~50%程度が歩合報酬率として設定されることが一般的。デメリットは、成果が出なければ収入がまったくないということ。その間の生活費は貯金を切り崩すなど、自分でなんとかするしかありません。
引用元:エン転職


本人のやる気と頑張りで、月に100万円稼ぐことができるというのです。

 


当時のわたしはどんなに頑張っても、20万円そこそこ稼げれば良い方でしたので100万円が途方もない大金としか思えず、特別な能力のある人にしか稼げないものだと思い込んでいました。


ですが、福井県は所得水準が日本国内でも特に高く、1世帯当たりの貯金額も日本一という土地柄、周りは裕福なお家ばかりです。


そこの家の子どもたちに負けないくらいの生活を保つには、自分の実力で稼ぐしかないと考えて、まずは自分の考え方を徹底的に見直そうと考えました。


占いの勉強と並行して、マーフィやナポレオンヒルなどの成功哲学や、自己啓発系の書籍を読んだりセミナーに参加したり、コーチングの勉強や、営業のスクールに通ったりと隙あらば学んで、自分を見つめる作業の繰り返し。


人とのコミニケーション術も学びはじめると、お金持ちのひと達に直接会う機会にも恵まれ、その思考パターンにふれることで、自分自身の「思い癖」を改めるきっかけを得ます。


思考に変化が起きると行動にも変化が起きて、2年の月日が経つ頃には、月収100万円を達成できるようになっていました。


よく、ブレイクスルーという言葉を使って、自分の限界を破るみたいなことを言いますよね。


このブレイクスルーしたなと感じた瞬間は、月収が7桁を越えたときです。


それも一度だけではなく、絶対にやり遂げるという忍耐力と決断力で達成し続けました。

その体験が今もわたしの自信となっていています。


だれかに期待する生き方ではなくて、自分の人生なのだから、「わたしはわたしに期待する」という生き方にシフトできたのは、このフルコミッションでの営業経験があるからです。


そして、日本一の成果を3年連続達成する中、新しい占いの師匠との出会いも有りました。


それが、台湾人の若い男性メンターとの出会いでした。

 

 

 

 

【耀香ストーリー】絶頂とどん底