対戦カードは
東京ヤクルトスワローズVS中日ドラゴンズです。
本当に久しぶりに野球場に来たのですが、やはり球場に来るとワクワクしますね。
スタジアムの温かな光を見ていて昔観た大好きな映画を思い出しました
その映画は「フィールド・オブ・ドリームス」
野球映画の、ベースボール映画の奇跡のような最高に素晴らしい感動的な名作映画です。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20220409/23/youichi-0219/ea/8b/j/o0712108015100468354.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20220409/22/youichi-0219/d5/38/j/o0762108015100454341.jpg?caw=800)
応援していた中日ドラゴンズは残念ながらヤクルトに2対1で敗れてしまいましたが、試合を見ていてドラゴンズは同点と逆転出来る大きなチャンスが2度ありました。
しかしヤクルトの投手陣が素晴らしい活躍をされて見事に抑えて勝利し、さすが昨年度の王者と思いました。
僕はヤクルトスワローズも大好きなので素晴らしいゲームを見せてくれた両チームに称賛を贈りたい気持ちになりました。
野球はいつの時代も大衆の人々に支持され明日への活力を与えてくれます。
今の世界情勢はロシアがウクライナに侵攻し世界中が戦争によって張り詰めた緊迫感に包まれています。
それでも日本でもアメリカでも野球やベースボールの試合は行われ人々に夢や希望を与えてくれています。
先日仕事が早朝勤務で早く仕事あがらせていただいた時に、仕事帰りに東京ドームに行ってみました。
ちょうどデーゲームで読売ジャイアンツVS東京ヤクルトスワローズとの試合が行われている真っ最中で東京ドーム周辺は大変賑わっていました。
その東京ドームの片隅に太平洋戦争で亡くなられた野球選手の方々の鎮魂の碑が立っています。
日本の歴史上最高の大投手と言われている戦争で亡くなられた沢村栄治投手や影浦将選手。
その鎮魂の碑の隣に1人の投手の碑か別に立っています。
名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)の投手として活躍し神風特攻隊として戦死された石丸進一投手を偲ぶ石碑です。
碑の文章を書かれたのは石丸進一さんの兄で進一さんと共に名古屋軍で活躍された石丸藤吉さん
です。
最後のキャッチボール
真っ白いボールでキャッチボールをしている時、進一の胸の中には生もなく死もなかった。
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![](https://stat.ameba.jp/user_images/20220409/23/youichi-0219/a5/83/j/o0929103715100468408.jpg?caw=800)
僕が石丸進一選手の事を知ったのは1994年7月10日に放送された「知ってるてつもり?!」を見たからでした。
番組ゲストに2代目水戸黄門役で知られている西村晃さんが出演されていたのが凄く印象に残っています。
西村晃さんは太平洋戦争の時に学徒出陣で海軍の航空隊に入り、神風特別攻撃隊徳島白菊隊(通称 白菊特攻隊)の隊員として出撃された方でした。
番組の中で西村晃さんは、石丸進一さんの事はまったく知りませんでした、今回番組に出演して初めて知りましたと語られてました。
この番組を見た時はは本当に衝撃を受けました。
僕はこの時放送された「知ってるつもり!?」の石丸進一さんの回は当時ビデオに録画していて何度も繰り返し見ましたので、番組の細かい内容まで今もかなりハッキリと覚えています。
石丸進一さんは1922年(大正11年)7月24日に佐賀県佐賀市に石丸金三さんの五男として生まれました。
兄の石丸藤吉さんの影響で石丸進一さんも野球を始め、投手としてめきめきと頭角を現し、名門佐賀商業のエースとして活躍しました。
佐賀商業時代は「石丸のワンマンチーム」と呼ばれるほど独り獅子奮迅の活躍しましたが、高校野球甲子園大会佐賀県大会で決勝戦にまで勝ち進みましたが。
石丸進一さんは何としても決勝戦で勝って甲子園に行かなければと気合いを入れるために、試合前に力を入れる為に梅酒を飲んだら。
酔っ払ってしまって思い通りのピッチング出来ず決勝戦敗退してしまいました。
高校を卒業した石丸進一さんは職業野球(現在の日本プロ野球)の名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)の選手として活躍していた兄の石丸藤吉さんに、名古屋軍に入団させてもらうために、手紙を書き血判まで押して藤吉さんに送ったそうです。
藤吉さんは球団代表に相談し、代表は承諾し日本で初めてのプロ野球の兄弟選手が誕生しました。
石丸進一さんはプロ入り1年目(1941年)は中国戦線に駆り出されていた兄藤吉さんの代わりとして、野手として打者の選手として登録されてましたが、いつかピッチャーになる為にピッチングの練習を続けていたそうです。
プロ入り2年目(1942年)は兄の藤吉さんが戦線から名古屋軍に復帰し、石丸進一さんは念願のピッチャーとして登録されました。
この投手として石丸進一さんが初めて活躍した年の成績は17勝19敗 防御率 1.71
野球は残された数字のデータを見るとその選手の実力やチームの状況までよく解ります。
僕はこの数字を見て17勝は本当に凄く立派な数字ですが、19敗と負け越してしまってるのが気になります。
投手の真価は勝ち星以上に防御率にあると言われています、石丸さんの防御率1点代の数字は投手として最高レベルの成績です。
この年、名古屋軍は103試合を戦って39勝だったそうです、17勝を挙げた石丸さんは1人でチームの半分近くの勝ち星を挙げていて本当に凄い。
しかし数字見て解るのは、防御率 1.71の石丸さんが19敗もしているのは名古屋軍がいかに貧弱打線だったのかが解ります。
石丸進一さんが投手に転向して2年目(1943年)石丸さんのピッチングはさらに進化します。
投手転向2年目の石丸進一さんの成績は20勝12敗 防御率 1.15
東西対抗戦(オールスター)にも選ばれ、万年Bクラスと言われていた名古屋軍は石丸進一さんの大活躍で2位と躍進しました。
番組の中で石丸進一さんはどのようなタイプのピッチャーだったのか語られる場面で、実際に石丸さんのチームメイトだった方々の何人もが「巨人の桑田真澄投手に似たピッチャー」と語っています。
鋭いストレートと変化球、針の穴を通すような抜群のコントロールで素晴らしい勝ち星と防御率をあげていったそうです。
石丸さんは登板の日でも、公園で近所の子供たちに野球を教えていたそうです。
それを見た監督は登板日なので止めさせようと思ったそうですが、子供たちと一緒に野球を教えている石丸さんがあまりに楽しそうだったので、止められなかったというエピソードも残っています。
石丸進一さんがプロ野球選手として活躍されていた時期は太平洋戦争の真っ只中です。
戦争が激化していって野球の用語も敵性用語と呼ばれて英語から日本語になっていきました。
「ストライク」が「1本」と呼ばれ「アウト」が「駄目」と呼ばれるようになり、ユニフォームも野球のユニフォームから軍服の形をしたユニフォームになっていきました。
石丸進一さんのユニフォームの変遷。
石丸進一さんはプロ野球で得ていた給料のほとんどを実家に仕送りされていたそうです。
進一さんのお父様の石丸金三さんは理髪業を営んでましたが、苦労人である金三さんは子供たちには苦労させたくないとあちこちに借金して子供たちを学校に通わせていたそうです。
その借金がどんどん膨れ上がっていって、焦った金三さんはその借金を一気に返済しようと株に手を出してしまい、これが大失敗してしまい実家の借金は膨大な額になってしまいました。
石丸進一さんは実家を助ける為に最低限の生活費以外すべて実家に仕送りしていたそうです。
ある日、名古屋軍の選手が集まって、選手の給料で食べた御馳走の話になって、みんな美味しいもの自慢してましたが、進一さんの番が回ってきて。
「美味しいものどころか僕はタバコも吸ったこと無いです」
と恥ずかしそうに言われたそうです。
その実家の膨大な借金も進一さんの献身的な仕送りですべて完済されたそうです。
金三さんは大変喜ばれて進一さんに感謝し、進一さんはお父様の金三さんが喜ばれているのを嬉しそうに見ていたと言われています。
その頃日本はミッドウェー海戦に敗れ、ガダルカナル島を占領され圧倒的な不利な状況に追い込まれていました。
フィリピン・レイテ島の戦い。
日本は不利な状況を打開する為にある作戦が行われました。
関大尉率いる日本初の神風特別攻撃隊 敷島隊の出撃です。
神風特別攻撃隊は零戦に250キロ爆弾を搭載し、パイロットもろとも敵艦に体当たりする作戦
人間を爆弾に変える。
この狂気の作戦を指揮したのは海軍中将の大西瀧治郎。
ベテランパイロットによる敷島隊の戦果は凄まじく出撃した五機すべてが命中。
空母「セント・ロー」撃沈し日本は海軍・陸軍ともに特攻作戦を中心に切り替わって行きました。
日本国内では戦争激化に伴い、それまで兵役を免除されていた19歳以上の大学生が戦争の前線に駆り出される事になりました。
学徒出陣です。
名古屋軍の選手だった石丸進一さんの元にも赤紙による召集令状が来ました。
番組ではここで、日本大学専門部芸術科に在籍し学徒出陣で神風特攻隊員になった俳優の西村晃さんが疑問の声を挙げました。
「この方はプロ野球選手でしょう、プロ野球選手がなぜ学徒出陣で特攻隊員になったのかさっぱり解らないです」
そう西村さんは話されました。
番組はその後、当時の職業野球(プロ野球)球団が兵役によって選手が戦争に駆り出されるのを防ぐ為に、当時兵役を免除されていた大学に選手を在籍させていました。
選手がいなくては職業野球は成り立たないです。
石丸進一投手は日本大学の夜間部に在籍されていました。
しかし学徒出陣によって石丸さんの元にも召集令状が来ました。
番組でその事が解説されると西村さんは。
「ああ…そういう事だったのですか」
と深く納得されていました。
石丸進一投手の元に召集令状が届き、兵役に行かされる事になって。
もう野球が出来なくなる。
その思いが石丸進一さんが今もプロ野球史上に残る大記録を達成する力になりました。
1943年10月12日、名古屋軍対大和軍との試合。
石丸進一投手の投球は凄まじく、与えた四球はわずかに1という戦前最後のノーヒット・ノーランの大記録を達成しました。
そのノーヒット・ノーラン達成の試合からわずか9日後、石丸進一さんは雨の中、国立競技場で行われた出陣学徒壮行会に参加されました。
学徒出陣で海軍の航空隊に志願した石丸進一さんは予備学生として筑波海軍航空隊に配属されて猛訓練を受けます。
番組では石丸さんと同じ筑波航空隊にいた方が証言されてましたが、学生は職業軍人から執拗に鉄拳制裁などを受けたと語られてました。
学徒出陣で学生から兵隊になった学生は、いきなり少尉という言わば飛び級で士官クラスの階級が与えられました。
それが職業軍人には気にくわないらしく「お前ら学生は予備(スペア)だからな」とあからさまに馬鹿にされたと証言していました。
厳しい訓練を受けた後、ある日1枚の紙が石丸さんたち学生の航空兵に配られました。
その紙は神風特別攻撃隊に志願するか拒否するかのどちらかを選択を迫る紙でした。
熱望
否
紙にはこのように書かれてどちらかに丸を書くように選択するように書かれてました。
石丸進一さんは熱望に丸をされたそうです。
ここで番組のゲストに出演した特攻隊の生き残りの西村晃さんが非常に貴重な証言をされました。
「誰だって死ぬのは嫌だけどNOとは言えない、私も熱望に丸をしましたよ」
そう当時の苦悩を語られてました。
石丸さんは最前線あたる鹿児島県鹿屋基地に配属になりました。
ある日基地で野球大会が開催されてチームは学生チームと職業軍人の上官チーム
学生チームのピッチャーは石丸進一さんで受けたキャッチャーは甲子園に3度も出場し法政大学でも野球部に所属し学徒出陣で特攻隊員になった本田耕一さんでした。
普段学生に威張り散らしている上官は石丸さんの豪速球にまったくかすりもしなかったそうです。
あまりに球が飛んで来ないので外野を守っていた3人は3人集まって寝っ転がってタバコ吸っていたそうです。
上官が石丸さんに「もっとゆるい珠を投げろ!」と命令しても石丸さんはさらに速い球を投げたと言われています。
石丸進一さんの友人は
「もう野球さえやらせておけばいつもニコニコしていたんだから」
そう石丸さんの事を語られていました。
石丸進一さんの特攻隊としての出撃が決まり、最後のお別れの挨拶に佐賀の実家に帰郷されました。
実家に帰ってきた進一さんにご両親もご家族も大喜びされて、その喜んでいるご両親の姿を微笑みながら見つめている石丸進一さん。
石丸進一さんが最後にご家族と共に撮られた写真。
石丸進一さんは兄の石丸藤吉さん宛に遺書を書かれています。
「野球かやれたことは幸福であった、忠と孝を貫いた一生であった。二十四歳で死んでも悔いはない。」
そのように書かれていたそうです。
しかし番組で石丸さんの航空隊の同僚は石丸さんの本音を話しているのを聞いたと語られています。
「親友の笠間に「俺は野球をやりたいんだよ…死にたくないんだよ…」そう話しているのを聞きました」
石丸進一さんの友人の浅野文章さんが特攻隊員に寄せ書きを書くように頼み、石丸進一さんは。
「葉隠武士 敢闘精神 日本野球ハ」
そう書いて筆を止めて浅野さんに渡しました。
その文章を見た浅野さんは思わず
「貴様!この期におよんでもまだ野球か!」
そう聞いたら石丸さんは。
「そうじゃ!野球じゃ!野球じゃ!俺は野球じゃー!」
そう叫んで走って去って行ったそうです。
石丸さんは「日本野球ハ」の後に何を書こうとしたのだろうか。
石丸進一さんと一緒に写った浅野文章さん。
番組の中で司会の関口宏さんが西村晃さんに
「西村さんは浅野文章さんは存じ上げられてたのでしょうか」
そう話しかけられましたら西村さんは
「浅野の事はよく知ってますよ、戦後坊主になってね、特攻隊の遺族の元を慰霊の為に訪問してました」
そう話されてました。
その頃、出撃した特攻隊がほとんど敵艦に辿り着く前に米軍のグラマンの大群によって撃墜されてしまっている事を特攻隊員は聞いて、夜中に悪夢で飛び起きてしまう事が起きました。
この頃の特攻作戦はこれまで250キロ爆弾を搭載していたのが、倍の500キロもの爆弾を零戦に搭載するようになって、ほとんど飛ぶのがやっとと言うような状況だったそうです。
「米軍によるグラマンの格好の標的、もっと酷い形容詞を付けても良いと思います。」
そう生き残られた方々は証言されてました。
昭和20年5月11日
石丸進一さんの神風特別攻撃隊筑波隊出撃の日。
司令官の訓示の後、隊員たちは別れの水盃を飲み干して。
石丸進一さんはその盃を地面に叩きつけて割り司令官を睨み付けたと言われています。
そして出撃を見守っている親友の本田耕一さん相手に最後のキャッチボールを始めました。
石丸さんの渾身の球を受ける度に本田さんは「ストライク!」と大きく掛け声をかけていって。
「これが最後じゃ」
最後の1球を投げ込み本田さんが
「ストライク!」
と掛け声を掛けられました。
「10球とも見事なストライクでした」
そうこのキャッチボールを目撃した報道班として鹿屋基地に来ていた国民的大作家の山岡荘八さんは書き残しています。
石丸進一さんは零戦に乗って、頭に締めていた日の丸鉢巻きを外して、持っていたボールを鉢巻きで巻いて零戦の風防から外に投げ捨てたそうです。
石丸進一さんの神風特別攻撃隊筑波隊の隊員は全員戦死されました。
石丸進一さんの最後の球を受けた本田耕一さんも、石丸さんが戦死した3日後に出撃し戦死してしまいました。
石丸進一さんの実家に進一さんが神風特攻隊として沖縄の海で戦死された事が伝えられた時。
父親の石丸金三さんは「進一!進一!」と泣き叫び。
外に飛び出して「これから沖縄に進一の骨を拾いに行く!」
そう言って沖縄まで船で海の進一さんの骨を探しに行くと言ってきかなかったそうです。
家族全員で父親の金三さんを必死で止めて諦めさせた事を石丸進一さんの妹さんは話されてました。
「知ってるつもり?!」のゲスト出演者はみんな号泣されてましたが。
ただ一人、特攻隊の生き残りの西村晃さんだけは涙を流さず、悔しそうな表情をされていたのがとても印象に残りました。
石丸進一さんが亡くなられて77年目の2022年4月10日
二十歳の千葉ロッテマリーンズのエース 佐々木朗希投手が28年ぶりのプロ野球完全試合を達成しました。
13連続奪三振の世界記録と19奪三振の日本タイ記録も達成し、日本中が熱狂し世界にまで佐々木朗希投手の名は轟きました。
アメリカのメジャーリーグではエンゼルスの大谷翔平選手が投打に大活躍をし、MVPを獲得しベースボールの世界でスーパースターになりました。
野球はベースボールはいつの時代も人々に夢や希望を与えてくれます。
鎮魂の碑は東京ドームの片隅に今も野球を見守るように、ひっそりと立っています。