師と弟子 | 洋一のブログ

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今日は仕事休みでゆっくりしています。

今の職場に異動する前は仕事休みの度にライブ現場に足を運んでいましたが。

異動になってからは休みが平日になりましたので、ライブにはまったく行かなくなり、カフェなどに入ってゆったりとしてますね♪

時間があるのでブログを書いてみようと思いました。

今回のブログのテ―マは「師匠と弟子」です。
 

僕が20年以上料理人として仕事をしてきて、一番と思えた仕事は。
イタリア・ピエモンテ州にあるミシュランガイドの最高位の三ツ星を14年連続で獲得し続けたイタリアを代表する名店「アル・ソリ―ゾ」の料理フェアを僕の勤めているホテルで開催される事になりまして。

そのアル・ソリ―ゾフェアの調理スタッフに参加した事でした。

アル・ソリ―ゾの女性料理長のルイザ・ヴァラッツァさん。






ルイザさんの作る料理に心底感動しまして、多くを学ばせてもらい。
一緒に仕事した期間は短かったのですが、ルイザさんは僕にとって生涯の師と僕は思っています。

ルイザ・ヴァラッツァさんが料理長、夫のアンジェロ・ヴァラッツァさんが支配人のレストラン「アル・ソリーゾ」は2013年には米国の高級誌「エリート・トラベラー」が企画した「世界のベストレストラン100」で世界第21位にランキングされました。

良き師に巡り合える程、幸せな事はないと思います。



ノ―ベル文学賞の候補にもなりました作家の井上靖さんはこう述べています。

人にはあらゆる人間関係がありまして、親子関係、恋人関係、家族関係など様々な関係がありますが。
  
その中で私は師弟関係が一番好ましいと思っています。

そう述べられていました。


僕もこの言葉には共感しました。

師と弟子は教え、教わられ、その師弟関係は崇高なものと思えます。


前に書きましたブログ「人を育てること」に漫画作品の「バガボンド」に登場する鐘巻自斎の事について書きましたが。   



 
鐘巻自斎は不世出の天才剣士・佐々木小次郎を育て上げて、自斎の門下生から天下一の剣豪・伊藤一刀斎を輩出しました。
 






伊藤一刀斎は師である鐘巻自斎に挑戦状を叩きつけて、自斎を破りましたが。

自斎が耳の聴こえない聾唖の障害を持った小次郎を立派に育て上げた事に心から感動しまして、師である自斎を心から尊敬するようになりました。















師匠と弟子との崇高な関係を象徴するような場面で僕は大好きです。


もうだいぶ前に読んだ本なのですが。

日本人で中国から料理人として最高位の称号「魯菜特級厨師」「正宗魯菜伝人」を与えられた唯一の日本人、佐藤孟江(さとう・はつえ)さんの本を読んだ事がありました。





特級厨師と言うのがどれ程凄いものなのか。

中国では料理人の位を7段階に分けていて。

その7段階の最上位にあたるのが特級厨師になりまして、中国全土でもほんの数人しかいないそうです。

中国では料理人を国を挙げて教育し育て上げていて、多くの優れた料理人は世界に散らばって活躍し外貨を稼いだりしてますが。

特級厨師クラスになると国家が手放さなくなり、主に政府の要人クラスや晩餐会など国にとって重要な料理を指揮するそうです。

その特級厨師の称号を与えられました唯一の日本人の佐藤孟江さんの本を読んだ事を思い出しました。


孟江さんは戦前中国の山東省のチ―ナンに生まれまして。
父親は宮城県出身なのですが、中国に渡りここ山東省のチ―ナンで会社を営み成功されていました。

裕福な家庭で育ちました孟江さんは、かなりお転婆で様々な事に関心を持ちまして。

家には専属の料理人まで雇われていたそうです。

料理に興味を持たれて、その専属料理人にいろいろ料理を教わっているうちに孟江さんは料理人なりたいと思うようになりました。

そして思いきって父親に料理人になりたい事を告げましたら、大反対されたそうで。

そりゃそうですよね、裕福な家庭のお嬢様がよりによって男社会の料理人に、しかも戦前の中国料理の料理人になりたいなんて♪(;^_^A

しかし、孟江さんの意志は硬く。

父親は、それならばと孟江さんを山東省チ―ナンの最高の名店を紹介して孟江さんに働かせました。 

この時、佐藤孟江さんはまだ17歳。


その名店の料理長は老板(ろうばん)と呼ばれていて。

老板は厨房に女が入る事を嫌って最初は孟江さんにかなり冷たかったそうです。

名店に入った孟江さんは、がむしゃらに必死になって働いて。
  
誰よりも一生懸命働いて

そんな孟江さんを見ていて老板は次第に孟江さんに料理を教えるようになり、大事にするようになりました。


ある日、孟江さんの作った料理を老板が味見をして言いました。

「お前は、いい舌を持っている」


この老板の言葉に孟江さんは震えるような感動を覚えたそうです。

書いていませんでしたが、この時日本と中国は戦争していました。

この山東省のチ―ナンにも日本軍は進駐していたそうなのですが。
孟江さんの回想によりますと、ここチ―ナンでは戦闘はまったく行われず平和そのもので日本人も中国人も仲良く生活されていたと回想されていました。


しかし

孟江さんが17歳から働きだして4年後。

日本は戦争に敗けまして、孟江さんのご家族もみんな日本に引き揚げる事になりました。

日本に帰る事を老板に告げましたら老板は孟江さんに。

ここに残って私の右腕として一緒にやらないか、いずれは店の後継者になってもらうと。  

この老板の申し出は大変喜ばしい事でしたが、日本は戦争に敗れまして孟江さんは日本に帰らなくてはなりませんでした。

老板の申し出を丁重に断られたそうです。


それから少しして老板は孟江さんに言いました。



「これから山東料理の奥義をすべてお前に教える」



それから孟江さんが日本に引き揚げるその日まで、老板による孟江さんへの孟特訓が開始されました。

その料理の品数100品以上。

 
孟江さんは老板に付きっきりで料理を学び。

老板の腕から繰り出される山東料理の数々はまるで壮大な交響曲のようであったと孟江さんは回想していました。
   

孟江さんが日本に引き揚げるその日。

最後の料理を作り終えた老板は孟江さんに言いました。


「これで最後だ、お前に教えることはもう何もない」

そう涙を浮かべて老板は孟江さんに言ったそうです。

「日本に帰っても元気で暮らせ」

老板はそう言って立ち去りました。

孟江さんは去っていく老板に向かって。


「老板!老板!」

そう叫びました。
 
そして心からの感謝を込めて言いました。


「ありがとうございました!」



日本に帰った孟江さんは、老板直伝の山東料理を出すお店を営み評判を呼ぶようになりました。


その頃中国では。

文化大革命の真っ只中、中国のあらゆる伝統や文化は粛清され破壊され尽くし。

それは料理にも同様で。

山東料理は砂糖、ラ―ド、化学調味料は一切使わないのが信条でしたが。

すべての文化を否定した文革は料理にも大量の砂糖や化学調味料を使用するようになり。

ここ中国で山東料理は完全に滅びました。

 
毛沢東の死去と悪名高い四人組の失脚に伴い。

中国は改革・開放路線に踏み切り伝統や文化の復活にも力を入れ始めました。

その時、滅んだと思われていた山東料理の正統な後継者が、伝説の料理人・老板によって伝授され日本で生き残っている知らせが中国に届きました。

中国は佐藤孟江さんを招いて正統な山東料理を中国の若い料理人に伝授してほしいとの依頼をされました。

中国で滅んだと思われた料理を日本人が中国人の若者達に教える事になりました。 

中国は佐藤孟江さんに中国全土でも数人しかいない料理人の最高位「特級厨師」の称号を孟江さんに授与しました。

ある日、孟江さんが中国の若い料理人に料理を教えているとき。
 
もう一人いた若い女性の料理人の教師が言いました。

「佐藤女史はああ言ってるけど、料理に砂糖は必要よ、砂糖は塩の4倍いれるの」

そう言ってその若い先生は料理にドバドバ砂糖を入れ始めました。

孟江さんは暗憺たる気持ちになっていたところ。

一人の若い生徒がその若い料理人の先生に言いました。


「出ていってください」


他の生徒達も若い料理人の先生を睨み付けるように見ています。


いたたまれなくなった若い女性の料理人の教師は教室から出ていきました。


若い生徒達は孟江さんに向かって

「先生、大変失礼な事をしてしまって申し訳ございませんでした、どうか私たちに本物の山東料理を教えてください」


そう孟江さんに言われまして孟江さんは大変感動されたそうです。


老板から孟江さんに、孟江さんから中国の若き料理人達へ。

師から弟子へ、魂は受け継がれたのだと思いました。


最近、二木蒼生さんが椿名先生とデュオされた機会があったそうで。

蒼生さんは「こんな日が来るなんて」と感激されていました。

歌の世界でも教師と生徒がいて。

その関係は崇高なものだと思いました。