18,覚え書き
   (1)

 例えば日本人の言葉が日本語、カエルの言葉がその鳴き声であるように、音楽家の言葉は音楽である。音楽を分かろうとするならばその音楽を言葉として聞くべきなのだ。そしてその言葉とは、その音楽家が自然や他者と心が一つになった時に生まれた感動だと言えよう。朝日に感動する時その音楽家は朝日に似る。その音楽は、次のように私たちに語ると思う。「……俺もあんな風に清らかな心になれたらなあ。」

   (2)

 私たちは、しばしば他者に苦しみを与えて喜ぶが、自分が同じようにされた時でも、まだそういう行為を肯定できるのだろうか。想像しよう。その時 悪いとか悪かったとかいう思考が生じる。その思考が良心である。人間は始めは世界に対して受動的な良心しか持てないが、思考や想像や理解によって、徐々に能動的な良心を持って行く。悪いと思いながらも罪を犯すのは、良心が能動的ではなく、まだまだ受動的だからである。

   (3)

 私たちが勇気を必要とする場面とは、例えば自分よりも肉体的に優勢な相手に立ち向かわなければならない場合である。勇気とは、たとえ自分の肉体が弱い場合でも、そのような自己の弱さに耐え続け、誇りを持続的に発揮し続ける事だと言える。ただし大事な事は、誇りの中身が正義かどうかである。誇りが見かけ倒しではなく、真に意味を持つとすれば、善においてよりほかない。そこには苦痛とともに、人間の尊厳がある。

   (4)

 なるべく自分の悪い所は直したいと思うが、中々そうならない。私たちの意識は自分の言動についての内省を持っていて、この内省が、更に善悪の観念を持っているが、鏡を見るようにして自己の善悪を思考する事ができない為、私たちは反省のない闇の中で変化しやすい感情に生きてしまう。だが、言える事がある。それは、強い内省は、必ず反省に転じるという事だ。強い内省という言葉を、自分の頭で考えている事と言い換えてもいい。


   19,覚え書き

 それはある男の、ある天使の物語である。その男を私が天使と言うのは、その男が私から見て神の子のままだからである。だが、私が神の子と言う時それは信仰を持っている者の事を必ずしも意味しない。即ち彼は、自分が神がいるとは思えなくなった事、そしてそういう事になった理由を人々に話し、一人になる。人々は男に対して反論という事はできなかったのだが、イエス.キリストの権威によって男を見下し、さげすみ、あざけって、見捨てて去って行ったのだった。だが、男は、イエスの生涯とは何だったのかという事を、孤独の中にあって反省という事をし、思考にまとわり付き続けて来る世界に対する憎悪と自己本位な思いを振り払い捨てながら考えて行き、最後に完全な意味を見出す。男の思考の中に決して消えない光が輝いている。最初男は自己の思考の中に混ざっている光に気付かなかったが、ふと自分の声が何かの歓喜を感じているような声である事に気付く。そして、自己が歓喜を感じている理由を自問自答する。男は、自分の考えている事が何であるかという事を思考する。それは光だったのであり、男は、叫ばずにはいなかったのである。以前の信仰のような誇り高く美しい信仰ではない。今の信仰は、世界と共に汚れ、傷付き、ぼろぼろになり、疲れ果てている。だが、それは確かに信仰で、例えばエレクトラにとっての弟オレストの帰還のような信仰、即ち歓喜なのである。私たちが自己の中に歓喜を感じるのは、自己が何かの真理を理解するという仕方によっている。真理の理解とは、過去の歴史上の人々の考えて来た 事を思考が継承する事だが、それはその観念が自己のこの世界についての記憶と直接つながるという風に為されている。そしてプラトンによれば、世界の背後には目に見えない太陽があるのであり、それが、私たちの認識の対象の数と同数の光線を発していて、この世界を照らし出しているのである。即ちその光が、この世界を照らし出しているいる事によって自己の思考になるのだ。その考えには一理あるという言い方があるが、それは、どんな思考にもこの光が混ざっているからだ。人は太古から自己の存在理由を考え続け、歴史や同時代や自己を見つめ、その時代時代に意味を見出す。


   20,「地図」解説

 私は、十六歳の終わり頃に文学を始めた。初期には司馬遼太郎を読んでいて、確か維新志士と新選組との戦いでは新選組の肩を持ったものの、結局の所は竜馬の理念、即ち近代ヨーロッパ思想に組し、己れの感情は度々後ろを振り返りながらも捨てたのだ。文学の特色は真自目な事で、それ以外の何の特色もないと思う。私が文学を始めたのは正にその点に引かれての事だ。そして太宰治の「人間失格」を読んで感激した。そして、私は二十四歳の後半で神はいると思った。で、二十五歳になった時その体験の影響下である文章を書いたが、そこには改心がない。「原地図」である。親鸞聖人の信仰は改心が前提になっている。改心によって信心決定して、それで彼は信仰している。当時の私は正義の士で、即ち悪というものが許せなかった。それで、あの一匹の黒い蛇を、この世界は善自体の比喩だと考えたにもかかわらずそっくりそのままで温存したのである。要は、黒い蛇だと言うよりほかない。だが、それでも二、三年後、私も改心して信仰の道を行き始めた。「地図」で善が悪に勝っている事に注意して欲しい。それ故あの文章はイエス.キリストの予感となる。今、私はこの世界はイエス.キリストによって善自体と直結していると考えている。

 少しだけ解説してみる。指環に光が宿るのは指環の完成の後である。指環の完成とは改心である。「『私』は悪人であるにもかかわらず、善と『私』が一体であり、『私』を外れた善は思考し得ずに」とは改心した後の表現だ。「私」とは指環を意味している。指環と光は別のものだ。それは光は射すものだという事だ。そうなったら、善はもう自分から離れない。改心前は一匹の黒い蛇のようだった者が、改心後は無垢の指環になるからだ。指環を離れて光はなく、光を離れて指環はない。それが世界の出現である。世界の出現とは運命肯定である。運命を肯定する事ができない。それが、一匹の黒い蛇の正義だった。それでも、その愛故に誰の事も憎めないという事にもなるのだ。悪を憎まないのではない。誰も悪にはとどまらないという事が彼には分かるのだ。悲劇を善しとする者など存在していない。だが、ここには浄化がある。そして、浄化とは、神への問いが、神への祈りへと、少しずつ変わって行くよりほかない事だと思う。全然何物でもない物体など存在していない。現に人類は、古代ギリシャの昔から、すでに、物質というものを四大元素に大別できているのである。そして、宇宙が存在しているという事が理由や原因となって地震津波や台風等も起きる。全ての物事には意味がある。それ故祈りとは物事はどう考えてもいいというものではないという考えにほかならず、それはそのままイエスの御名による祈りなのである。二十八歳以降の改心から改作に二十年以上かかり、今私は気付いたら四十七歳で、クリスチャンになっていた。