23、理想の学者
翼を 失くした文学者の文章、その叫びの中に光のようなものが混ざる、荒野で利害とは何の関係もなく、誰の目にとまる事もなく徳行を積む聖者のような光、その声は神への呼びかけのように聞こえる、誇りに満ちた声ではなく、その光が何なのか分からないがその光によって歓喜を感じているような声、その文学者は、自己の信仰を否定する事などできないし、その信仰を失う事もない、その声の中に、決して消えない光が輝くからだ、確かに翼はもうない、だが、その信仰が、新しい翼だと言えるのだ。そのような文学者を私は見た。見たとはどういう事かと言うと、本で読んだとか、音楽で聞いたとかいう事である。それは、ゲーテだった事にしてもいい。ゲーテとは文学史の中の信仰の叫びである。生の記憶の中には世界があるが、私たちはそれを、自分の目の前にある世界と見比べてみるのだ。それが人間である。だが一体私たちは、なぜそんな事をするのか。私たちは過去の記憶を、目の前にある世界に共感するように思考しようとするのである。そのようにして目の前にある世界を知覚し、その世界に入ろうとしているのだ。自分はこの世界にびっくりしたいのだ、と国木田独歩は言った。思考とは要するに、この世界で生きたい、感じたい、という事以外の何だろうか。人間は世界を見つめていて、だから学者は世界を求めるのである。そして、無私な思考をしようとする学者にとって、自分自身などは後でくっついて来るものなのだ。この世界には目に見えない太陽が一つあるのであり、それを、原言語と言ってもいい。この太陽が、私たちの思考対象と同数の光線を発してこの世界を照らし出しているのである。私たちは、世界とは何かを知らずに生きていて、この世界を見つめている。従って理想の学者とは、即ちこの世界を知っている者だという事になろうか。それは、天によって絶えず照らされていて善だと言えると思うし、また彼がその信仰を決して失わないという事でもあると思う。
理想に近く、深く学者である人間は、自らが研究する善という一つの知識によって動かされて行く、一つの肉体になる。そして善という一つの知識によって引きずられている一つの肉体であるような私たち学者の卵の目標は、差し当たっての所真自目な学者になる事だと言える。引きずられているが故に卵には善のスピードが分からない。だからまず卵のするべき事は、足の筋力をつけて行く事である。筋力がある程度つき、立ったり転んだりを繰り返せば、一つの善について行くのは並大抵の筋力では駄目だという事が分かって来る。その原理がペテロのつまづきである。ペテロはキリストに引きずられて転んだのだ。しかし、何度も転んだり立ち上がった りしている内には、実際筋力がついて来るはずなのである。別の言い方をすれば、それは、善についての思考を明確にし、保とうと努力し、善に近づいて行こうと努力する事である。つまり私たちは、人生において随分と走り回る事になるのだ。事実を認めるというのが学者の前提である。この前提を言い換えるとこうなる。何かある対象について自分の考えたいように考えようとする無意識を、できるだけ壊す事。従って学者は、自分が本当はどんな人間であるかという事を考える事、神の前で演技をしない事、神に対して嘘をつかない事。
私たちは、この世界で様々な形姿の内で生きているが、その内にあって死とは何かを心の中で時折考える。即ち死はまるで死が消えたかのようであって、その形姿が、どこにも見出せないのだ。思うにこの人生において私たちは様々な事を考え、表現するが、死だけは表現していない。この世界で私たちは何を考えているのか。考えている事とは生きる事だ。では、生とは何か。まず生とは感覚だと言え、考えている事とは感覚である。確かに生には様々な感覚、思考があり、それらは色々と美しい。美しさは発展し、張り渡され、その形姿が社会だと言える。だが、感覚はまだ生としては半身なのである。生は死と一つのものである。私たちはやがて死ぬ。それ故死について考えなければならない。死とは何か。この人生を生きている私たちが見出せる死の形姿は死んで行く他者だと言える。要は、私たちが死を見つめる時、その私たちが見つめる死とは仮の死になる。この仮の死が、自分がこの世界で見出せる死の形姿だと言える。所が私たちはその仮の死を見つめる事ができていない。なぜなら自己がそこで生きていて、そこに死が存在しないからである。死は、やはりどこにも見えず、そこになく、存在するのは、やはり、生なのだ。死について語る言葉はある。「暗い」とか「一人ぼっち」とかいう風に。「暗い」も「一人ぼっち」も死に近い言葉だと思う。だが、そのような言葉を自分の事として考える事ができていない。それは死という現実を自分の事として考え、想像する事ができていないから、つまり認識が浅いからだと言える。認識とは、そういうもののはずであり、そういう認識でなければ、自分とは関係のない観念の遊戯に過ぎないものなのだ。即ち結局自分の言葉で死を見つけなければならない。死について語る言葉を自分で語らなければならない。認識が深まるとは、私たちの思考が、生の中で深まって行く事であり、そのようにして、世界の深い場所にある事実が見えて来る事だと言える。そして、それは自己認識なのだ。つまり自己認識が、認識がかりそめになってしまわない為の最も重要な要素である。だが、自己を見つめる事は何を意味するのだろうか。それは、自己を悪と見る事なのかもしれない。そのような悪を解決する事は、自分の力に及ばないかもしれない。即ちこの事は自己の無意識の問題であり、心の中で自己を見つめる事は、意識の内部に無意識の闇を生じさせる事なのだ。闇を見つめ抜く事など恐らくは誰にもできないし、またこの闇は私たちの意識の内部に苦悩を生じさせもする。現に懺悔が一度で済んだ事など過去あったためしがないのであり、この点では私たちは恥辱にまみれている。自分を裸にする事は、自分の力でできる事かどうか分からない事だと思う。それでも、信仰はそのような自己について考え、救われたいと思うのであり、結局、私たちは、そのような自己に無意識ではいない。福音書を読むと、イエスによれば神とは私たちの孤独を分かってくれている方である。最後に孤独という事についてここで考えてみると、普通は、孤独とは仲間がいないという事ではないのか、失恋したわけでも友達に裏切られたわけでもない人が、「自分は孤独だ。」と語るのはなぜなのか、一体何が孤独なのかと私たちは考えると思う。だが、それは私たちが孤独というものを人間関係の一形態だと思っているからであり、もしかしたら孤独とはそういうものではないのかもしれない。確かに私たちの知っている孤独とは人間関係しかなく、私たちは人間の中で孤独になるのだが、孤独とは、もっと、絶対的なものかもしれない。言える事は、孤独を言うのは死を見つめているからであり、死ぬ時は誰もが一人で死んで行くのと同じように、その事が孤独なのである。だが、ここで、何はともあれ、死という言葉を、イエス.キリストによって、神という言葉に置き換えてはならない理由があるだろうか!