21、イデアについて
プラトンによれば、この世界には善の実相がある。善には子がある。善は自分に似た子を生んだ。それは太陽である。つまりその善は、ちょうど子である太陽が視覚や世界に光を与え、それを見るものと見られるものにするのと同じようにして、思考や世界に認識機能や真理性を与えていて、知るものと知られるものにし、知識と真理の原因になっている。また太陽は、見られる事物に対してそれを見られるようにするだけではなく、それらを生成させ、成長させ、養い育むものでもあった。つまり善もまた同様にして認識される対象に、その認識されるという事を確保するだけではなく、あるという事、その実在性もまた与えるのだという。しかも善は、驚くべき事に実在とそのまま同じではなく、位においても力においても実在のはるかかなたに超越しているのだ。そのような事とは全くかかわりがなく、比喩によれば私たちは、入口を持ったある洞窟状の 地下室において、全身を縛られて首や手足を固定され、前方の奥の壁面しか見れないようにされている。後の説明で太陽の事だとされた火に後方高くから照らされている、後ろの低い壁から出された、神々によって操られている様々な道具や動物や人間などの像の、前方の壁面に映った影だけしか見れないようになっていて、私たちは、自分が何なのかを、そのいる場所も、洞窟の外の世界も知らずにいる。また笑う べき事に、神々によって操られた像の影の、動きや形についての、百年の内には跡形もなくなる程無内容な色々な論文を残し、一生縛られたままだったのに何か一角の事を成したつもりになっている。プラトンは洞窟の外の世界を思惟によって知られる世界と規定し、内部を、視覚によって見られる世界と規定している。理想の哲学者とは、自然本来の状態に向かって、ある日、今はまだ縛られているプロメテウス、恐らくは彼によって縛めを解かれ、自己が入口の光明の方へと向き返り、洞窟の外の世界へ出、後の説明で善の事だとされた太陽を見た者だという事になる。だが、それは全く人間の力では不可能で、可能だとしたら、その事は、自分の造った人間の危機においてゼウスが、プロメテウスに和解を申し込むという事を意味する。それは、プロメテウスに言わせれば必至だが、他の多数の神々の目には至難である。それ程にゼウスは、自己の力を頼んでいる。ソクラテスの言う知識とは、そのような経過の後に、人間達の中からよくよく選び抜かれた者が、光明界の全域を経巡る事を意味する。そして彼の思考は、その洞窟の中において、天空の神々の世界や死後の冥界の事などの洞窟の外の真実についての知識を持ち、洞窟の内部の影についての知識がそうだったようには消え失せたりせず、洞窟の中のもう一つの光明になるのである。即ちその人は哲学王として理想国家を築き、統治する。
物体の影とは、色もなく、形もおぼつかないという事である。物体とは違い、光がちゃんと当たれば消えてしまうようなものであり、物体とは区別する事ができる。影に生命があるとすれば、それは物体に依存し、物体の動きをまねているという所にある。そして洞窟とは影しか見ていないという事である。プラトンは、洞窟の内部を「視覚によって見られる世界」と規定し、外の世界を「思惟によって知られる世界」と規定している。要は、私たちの思考が影と同質のものと化して消えてしまう程に感覚的でしかないとプラトンは言ったのだ。理想は、思考が、生の形姿の中で、教育によって影を太陽へと破って行く事だと言える。比喩の中で私たちは「囚人」と呼ばれている。即ち洞窟の比喩は、私たちを、まず第一に罪人として規定している。この比喩はこれ以上ない程深く、その深淵は、簡単には破れないようになっている。それでもイエス.キリストによって私たちの罪に対する許しを見てはならない理由があるだろうか!
22、エレクトラ
近代詩はボードレール以降その表現が無駄のない本質的なものになったが、結果的に通俗性をもそぎ落とす事になり、よく言えば精神的だが、悪く言えば独りよがりのものになってしまった。ソフォクレスの「エレクトラ」は本質的でありながらなおかつ一般に愛好されるだけの魅力を持つ作品だった。だが、近代の作家ホフマンスタールの「エレクトラ」は、明らかに一般に理解される作品ではない。私自身も、「チャンドス卿の手紙」に鋭さを感じたからこそ辛抱して理解に努める気になったのである。それでも、私は、ホフマンスタールの「エレクトラ」 の方がソフォクレスの「エレクトラ」よりも優れていると思うに至ったのである。ホフマンスタールに較べたらソフォクレスものろのろしていて仕方がなかったのだ。近.現代の文学は、その表現が余りにも鋭い。即ち現代文学は自然対真理表現の対立を抱えている。もっと簡単に言えば現代文学は簡単には読み取れないという事だ。はっきり言えば自然も真理も一つのものであり、従って文学は過去に帰るべきなのだろう。現代文学の難解さは真理を志向する純粋さに由来しているのだが、分離が一つの地獄を生んでいるという感覚を忘れるべきではない。そして過去に帰るべきだとは過去から未来へと続く時間であれという事だ。ここからソフォクレスとホフマンスタールの「エレクトラ」を比較してみたい。そして如何に模範的に過去から学び取りつつ、学び取ったものを一般的通念から解放してなおかつ自然に帰しているかという事を示せると思う。
まず私たちは、ソフォクレスの「エレクトラ」に何を読み取る事ができるだろうか。ここには取り合えず勧善懲悪の思想を読み取れる。要は、復讐という行為を主人公エレクトラは完全に肯定していて、また劇も、そのようなエレクトラの味方をしていて、見ている私たちが、それを自然の流れとしておかしくないものと見るように書かれている。だが、よく読むとただの復讐劇ではない。エレクトラの心の中には生に対する否定が生じている。そしてそれに注意して読んで行く事で、生命の尊厳はどうなるのかという作者の思考が浮上して来る。内面において闇を見つめているエレクトラの心が結末までどのような経過を辿って行くかをよく読んで行こうとすると、別の読み方が可能になる。弟のオレステスは夜明けに登場し、エレクトラの救済を前以て約束したが、もう一つの意味を持つ事になる。仇となる妃クリュタイメストラは、エレクトラの産みの母親である事によって生命を象徴して来る。なぜ生が悪役になるのかと言うと、生が無限の生命の死を全く意に介さないからだ。もう長い年月父の死を歎き続けるエレクトラに、合唱団が、そんなに歎き過ぎるのは生きている者の身として度が過ぎないかと悟したりする。エレクトラは、母、生を憎悪し、父アガメムノン、死を慕っている。父の生前は可能だった生に対する愛が、母による父の殺害、生と死の分離によって不可能になってしまっている。結末で母親を殺すのだが、それは生命の死を意味するのではあり得ない。それはエレクトラ自身の死を意味して来る、それを語る場面が、その前の姉弟の対話である。ここではエレクトラのセリフが全て歌であるのに対してオレステスのセリフは全て台詞なのだ。そしてオレステスは、自分に対する姉の大き過ぎる愛情を見て、理解できず、不機嫌におち入るのである。エレクトラの考えは、神を恐れぬ者に生きる価値はないというものだったが、オレステスには、そこまでは自己の正義を振りかざす事ができない。要は、母親を殺す事によって生命までも否定した報いとして、エレクトラもまた罰を受けたという事なのだろう。ホフマンスタールの「エレクトラ」は、その表現がソフォクレスよりも直接的になっている。ソフォクレスは劇の中で象徴を駆使する事によってエレクトラの内面の深層を暗示したが、ホフマンスタールは、その深層に直接光を当てた。だから登場人物達が義をあれこれと論じたりという事はここにはもはやない。話題は、専ら生命の尊厳とは何かである。冒頭の、家の召使い達の会話によれば、エレクトラは家の召使い達を平気で蝿呼ばわりするのだが、召使い達も、エレクトラに、お前も私たちと同類だという意味の言葉を投げ付けたりする。その会話の中で、一人だけエレクトラの味方をする召使いがいるが、その召使いは、エレクトラの味方をした事によって迫害される。エレクトラには、その為に一人になっても悪に流されないという所がある。エギスト(アイギストス)を、寝床の中でしか英雄になれない卑怯な男だとエレクトラは影でののしる。このののしりはそのまま影口を言うエレクトラにも帰って来るように見えるが、エレクトラは、オレスト(オレステス)の帰還を待っているだけである。現にオレストの死の報せが届くと、エレクトラは自分の力で復讐を遂行しようと決意する。エレクトラの事を誰も理解できず、皆恐れたり憎んだりしているが、死んだはずのオレストが、特殊な程の善性を身にまとって登場する。そして オレストが、ためらいを見せつつも復讐を果たす。だが、エレクトラは、オレストを中心とした喜びの輪には入れず、そこで餓死する。要は、エレクトラの復讐とは自殺だったのだ。ここでは生に対する否定は、エレクトラの自殺として描かれている。またオレストも、自分を愛している姉に対して不機嫌になったりはしない。その後のオレストの話しは、アイスキュロスのオレステスを主人公にした三部作で有名である。