13、悪について
私たちは人目に付く所では法律によって自分の欲望を抑えるが、人の見ていない所では別の自分になる。自分なりに正義を愛しているような人でもそのような自己を持っている。だから、比喩で言えば、昼間人の見ている前では思う存分に正義を叫ぶが、夜誰も見ていなくなると、闇の中で自分をその中に落とすような穴を掘り続けていて、ある日、昼間正義を声高く叫んでいる最中に誰かにその穴へと突き落されるという運命になりかねない。これは誰にもある危険のはずである。自分自身に対して警戒して欲しい、要はそういう事だが、もし穴に落っこちるような事になっても反省してまた再起すればいいという事も言いたい。大事な事は、自分が分裂していないか絶えず警戒する事。また自分の心の中を日頃から人に見せるといい。自分の心が始めから強いものだなどと思わずに、きちんとそれに対して目を向けて欲しいのだ。特にこの注意がよく当てはまるのが政界かもしれない。この世界には自分の仲間にして何も言えないようにしてやろうといつも狙って、お金を受け取らせようとしている連中がうじゃうじゃいるだろうから。正義の士として入って、結局汚職政治家になってしまったという人は、道理から考えて結構いるのではないかと思う。私も、もしそういう立場にいて、何の影響も及びそうもない状況で何も受け取らない自信があるかと言えば覚束ない。自分が闇に対して抵抗できるかどうか分からない。闇の中にいて正義を貫く理由、強さ、こればかりは、私たちが信仰を持つ事によってしか戦う事のできない問題だと思う。闇が私たちを支配している。そんな支配の中で、私たちが持っているものに愛がある。だが、私たちはこの愛を、中々より光に近い善に向ける事ができず、落っこちたり転んだりばかりして傷付いている。またこの世界には血が流れ過ぎていると思う。戦争が悪だとは誰もが理解できる事実のはずだが、それが絶えず起きてしまう。戦争とは、まず権力者が国民を煽動して起こすものかもしれない。演壇とかテレビに出ている人達は私たちには偉く見えるから、それで、私たちは、その人達が何を言っているのか分からなくても、その演説に何となく感心してしまい、煽動されるのかもしれない。いや、戦争とは私たち皆が心の中で望んでいるものでもあるのかもしれない。戦争は皆が一つの共同体になったような思いを一人一人の心の中にもたらす。孤独な人はその時夢中で叫ぶのかもしれない。例えば第二次世界大戦時の日本の中のあの連帯感にどうすれば抵抗できただろうか。あの戦争は、今振り返ると、誰から見ても悪だっただろう。あの時代の政治家達は、帝国主義の侵略を押し進め、負けが決まっていた対米戦争を原爆が投下されるまで手放さなかった。あの時代、なぜ、人々は政治家達に従ったのか。第一には、天皇に対する忠誠があったからだが、同時に戦争における勝利という目的を皆が共有し、日本史上かつてなかった連帯が生じていたのだ。戦争とは望まれて起きるものだと言い換えられる。現代でも、日本の若者達はひまつぶしばかりの、求めるもののない日々を送っている。もし、政治家達が戦争をする理由をもっともらしく演説したら、なぜ、再びそれを望まないだろうか。時代は下り、兵器の破壊力は桁違いに増している。次、世界大戦が起きれば、世界は間違いなく火の海になってしまう。
このような状況の突破口の一つが文学である。ここから少し自分について書く。私は余りにも平気な人間なのだ。人間が何の為に生まれて来て、生きているのか分からずとも平気である。私は自分さえ良ければいいので、だから自分の耐え得る範囲内で人に親切にするだけの人間なのだ。それでいいと言っているのではなく、感じるという倫理が私には余りにも高く、そこに届く事ができないでいる。浪人時代、私が自転車でよく行った所は、ちょっと市街から離れた所にある土手だった。そこはとても見渡しが良く、目に見える随分遠くの方まで田んぼが広がっていて、とてもよく空が見えた。私はよくそこに夕日を見に行ったのである。夏の終わりには、緑色だったその一面の田んぼが金色の波に変わった。私の住んでいる市街では吹かない風がそこでは吹き、自転車で土手を走っていると頭の上をつばめが飛び、ビルなどのない広い空を、すずめやからすなどの鳥達が何羽も飛んでいるのだった。金色の田んぼ、鳥、風、そして夕日。だが、私にとって自然は、なじみのない感覚であって、私は自然を他人の母親を見るようにしか感じられなかった。私がよく思い出し考えていた絵があった。それは老トルストイが森の中の木の下で、草の上で昼寝をしている絵で、その中でトルストイは、何と気持ちが良さそうに寝ていた事か。それに対して私は、コンクリートの上に座って夕日を眺めながら、「一体ここに何があるのか。これらが何だというのか。」とだけ考えていた。私は感動を求めていた。本物の感動を求めていた。私の見た所では、多くの人々にとっても、やはり、感じる事は難しい事らしい。つまり感じる事も学ばなければならない。薬を使ったりするのではない。本を読み、そこに表現された世界を見つめ、その世界を理解し、そして自分の心を探し、見つめ、深めるのである。そのようにして私たちは、歓喜を、苦悩を、不幸を、痛みを、荒涼を、深く感じるようになって行く。つまり、世界とは、自分の意志で思った通りに感動できるものなのではなく、私たちが、自分の心をよく見つめ、例えば愚かな言動を取らないように制御したりしながら、苦労の中で長い時間をかけて、我慢強く、粘り強く学ぶものなのである。文学とはそういう営みで、突破口になるというのはそういう事だ。
14、善い悪について
善を忘れない事が大事だと思う。善を忘れないとは他者を忘れないという事である。他者への思いやりが善の第一には来るからだ。大抵の人は、人が見ている所では善を守るが、心の中ではそれを苦しがり、人が見ていない所では善を休むのではないだろうか。私たちは、人が見ている所では人に親切にし、自己に厳しく、自己を犠牲にし、良心を持ち、無私である。が、人に知られないという前提がある中で、盗みを働かないとか、女性に何もしないとかという自信のある人がどれだけいるだろうか。私たちは、人が見ていなければ、そのようにプログラムされたロボットででもあるかのようにそんな事をし始めないだろうか。つまりなるべく人の事を考えるようにして、親切をしたり人の為に苦労をしたりして、善を身に付けるようにしたい。
過去の私は、人の見ている所という事がかなりあったと思う。心の中で表に出せない事を色々と考えているという事のほかに、過剰な善によって自分を大きく見せようとしたり、過去の手柄話しをしたりした。また善を強調する割には自分の都合の悪い事は言わなかったり隠したりした。ひどい時にはパフォーマンスになっていた。そういう事は偽善であり、きっかけさえあればそういう偽善者は、人前などですぐに倒れてしまうものだ。実際何度も倒れたのだった。自分の正体が人前でさらされた時の本当の自分への落下は屈辱である。本当に恥ずかしく、合わせる顔がないのである。
話しがずれるかもしれないが、人間とは自分の事ばかり考えるのだ。人の事を考えるという事は本当に難しいのだと言える。それなのに人前で転ぶ人がいると、私たちはその人の事を途端に厳しく批判したり軽蔑したりしてしまいがちである。だが、つまり、それは、自分自身の事を忘れてしまっているからそうできているのであり、要するに心の見つめ方が甘いのである。よく自分の心を見つめ、自分だってそうなのだ、と自分の事として考えて欲しいのである。
人間には体験や思考によって自覚する能力がある。私は、何度もひどい失敗をし、自分の正体が何度も見られて反省を繰り返している内に、自分は余りにも浅はかではないか、と思うようになった。私には、人が分かりさえしなければそれを隠し通そうとするような所、それが明るみになるしかないと状況を理解して初めて言うような所があって、それ故に、人に何か言われた時も、それを隠し続けようとした。だから、小出しの懺悔になり、恥辱にまみれ続けた。言い訳のできないような指摘を受ける事によってそれを改めるという事を私はし続けた。「言い訳のできないような指摘を受けるまでは私は自分が善人であるかのように振る舞い続け、自分について告白できなかった。」というような出来事が何度も繰り返された。自分は、確かに善に向かおうとはしていた、しかしそれは表面だった、それが、過去の私が苦しみながら認めた事である。そして、私は、自分を固く守り、「深く善人でなければならない。」と思うようになった。
善という思想は、始めは煙のように実体のないようなものかもしれない。だが、習慣化する内に、それは、固体ででもあるかのようになって来るのではないだろうか。固体とは固いという事だ。この固体がどのように変化して行くかは想像がつく。段々とこの固体ででもあるかのようなものが、金属で出来た仮面のようなものになって来るのだ。だが、問題は、この仮面が決して壊れないように見えるという表われ以上のものではない事だと言える。仮面とは、私たちが、とうとう自己の正体を隠しおおせてしまったという事でもあるからだ。つまり、善い行為が仮面、要は、善人のふりをするのと同じ事になってしまっている。私たちは、自分の事を偽善者だと思わざるを得なくなりはしないか。私たちは、人の目の前で自分を善く見せようとしていたり、本当に自分を善くしようと努力したり、私腹を肥やしてばかりいる者を見下してみたり、人の罪をとがめたり我慢したりしているが、それらは、人それぞれが付けている仮面の表情である。私が、人の事を愛そうと思うのは、私の付けている仮面の顔にその人が似ているように見えるからである。では、似ていない者は愛されないという事になるのだろうか。人は自分の仮面の視界でのみ人を愛する。だとしたら、人が愛するのは、人ではなく、もっと別のもののようにもはた目からは見える。では、私たちは、この仮面を何度でも破壊しなければならない。なぜならこの仮面が似ているものこそが真実の善だからである。
15、学者の修行
文学とは文章だが、単なる文章ではない。文学者はその文章の中で目に見えない自分の心を書いている。その心に目を留めて、それを少し理解できたと思うような人は、自分でも何か書きたくなると思う。ここに書いてある事は自分にもよく分かり、自分も何となく同じように感じていたと思うからだ。それ程私たちの心の中というのは人に知られず、孤独で、表現というものがなければ孤独なのである。ただし文学とは虚栄心の満足ではないので、学者はできるだけ人の目から遠ざかり、自分の部屋なり研究室なりに、一人っきりで込もれるようにならなければならない。ここに学者の修行がある。私たちはうずうずし、自分はこんな事を知っているという事を手っ取り早く分かってもらいたがる。
書く事程自分の考えている事が深まる事はない。書くとは自分の考えを書くのであって、それ自体普段以上に自分に対してきちんと目を向けて考える事になる。つまり書く為には、自分の感じている事、意見を、その際自分の心を見つめ直して考えねばならない。本を読み、それがどういう事なのかと考えるだけでも取り合えずはいいのだが、書く事によって、自分の意見が紙の上に書き出される事になる。意見とは自分の心である。紙の上に書かれた自分の心を私たちはよく見る事ができる。それを見ても私たちはつまらないと思い、それを文学と呼べるのかと考えると思う。だが、書く事は正確なら正確な程、できるだけ嘘や虚飾がない方がいい。文学とは真実だけを書くものだからだ。特別に抜きん出た意見などというものは中々持てないから、私たちは、紙の上の自分の心を見てからっぽだなと思うが、では、もっと自分の心を見つめねばならない。嘘や虚飾をなくすと言っても、そんな風にして書かれた文章とは、自分の私生活の見るに耐えない猫写になるかもしれない。またそれは、「これの何がおもしろいのか。」という感想にしかならないかもしれない。例えばトルストイの「アンナ.カレーニナ」やゲ━テの「ファウスト」などを読んでも、「これの何がおもしろいのか。」とか「これよりおもしろいものはいくらでもあるのではないだろうか。」とかいう感想しか、正直に言えば出て来ないと思う。が、私たちは、「アンナ.カレーニナ」や「ファウスト」を読み、「分からない。」とも思っていないか。トルストイが何を言っているのか、読みながら分かっていないからそんな感想になる。では、もっと読み込まねばならない。自分の読み込みが足りないという事を、私たちは自分で感じていないか。読書において、本を読みながらその本の中を前へ前へと進み、書かれている意味が分かり、それをおもしろいと感じ、その本の中で精神が目覚めている、という事がたまにある。精神の中の肉体的要素がガラガラと音を立てて崩れ、私たちの頭上の空では鐘がガランゴロンと鳴っているが、私たちはそれに気付きもせずに没頭していると言った風に。もしその時私たちが手に取っている本が「ファウスト」だったら、それは、私たちの頭上の天上界で、一体何が起きている事なのか。おもしろいと思える本を、私たちは自分で探すのだ。どうせなら「神曲」や「ファウスト」のような本がいいが、読めばどうしても理解できないものは仕方がないと分かる。そういう本は、文学者としての修行を積み、読書を重ね、自らの節目節目に挑戦して読むものなのである。ある日その本を手に取って、開いて読み、「あ、これなら行ける。」と思える日が私たちには必ず来るのだ。文学とは人間関係などに悩んで色々と考えた後に、何か探し始めて、ふと心が引かれていたりするものでもあると思う。太宰治の「富嶽百景」や「走れメロス」などを読んでみるといい。真自目で、考えていて、悩んだ跡があり、何となくおもしろいだろうから。