本間棗軒は1872年3月16日に死去している。原南陽に学び更に華岡青洲とシーボルトというその当時の東西の巨匠に師事している。日本で初めて脱疽に対し下肢切断術を行い外科医として名医の名を恣にした。さらに内科にも長け連珠飲(苓桂朮甘湯合四物湯)を創成している。当時医学界は閉鎖的で、医術は門下秘伝とされた。華岡門下でも同様であったが本間棗軒はこれを破り、華岡医術を『癰科秘録』として出版する。これに対し青洲亡き後の華岡グループは反発して本間棗軒を破門とした。しかし本間棗軒は終生
天下第一の英物と申候は華岡一人かと奉存候
(華岡青洲唯1人が日本で傑出した医師だ)
と語ったとされている。華岡青洲が生きていれば本間棗軒になんと語りかけるのであろうか?医術の秘匿(当時はにわか医者が多く本を読んだだけで外科手術の真似事をして患者を殺す医師も多かったといい自分の門下にしか医術を伝えなかったという説もある)と公開のどちらが正しいかは分からないがこの書物によって華岡青洲の事跡が後世に残されることになった。
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