巡礼の道としての東海道 | 東海道五十三次・最後の旅籠 次期八代目当主、台風の目と称された興津 清見潟の宿と町を目指して…

東海道五十三次・最後の旅籠 次期八代目当主、台風の目と称された興津 清見潟の宿と町を目指して…

東海道五十三次 興津宿 "最後の旅籠" 岡屋旅館 次期八代目当主 岡屋弥左衛門松太郎。

東海道 宿場町の本陣・脇本陣を筆頭にした三千軒の旅籠を背負って、
台風の目と称された
【世界遺産・三保ノ松原】 裏磯、かつて天下の清見潟…そんな宿と町の再興を目指して…。

巡礼の道としての東海道…



私は、今年度はじめ、コロナ禍の逆境の中、

生き残る術を過去から探す為、

今や浮世絵の世界、東海道五十三次を歩きました。

途中、宿場町跡に『時空を越える"道"との対話〜東海道五十三次の旅』と徒歩での約500kmの一人旅をする私の今の心境にまさしく響くタイトルが目から脳裏に、心に入ってきました。


道中を正解にたどると、

徳川家康にしては、人質から解放されるきっかけとなった桶狭間古戦場跡を通り、そのきっかけとなった、織田信長が参拝の例に倣い、熱田神宮に参拝し、まさしく、心の中では、タイムトラベル…。

もしかしたら、徳川家康は、驕りや怠慢を戒める為に桶狭間古戦場跡を道中に組み込んだのだろうか?


途中には、古来より有名な神社仏閣と名所旧跡が多くある。


東海道中膝栗毛は、伊勢詣でもある。


草薙の剣(天叢雲剣)を祀り、織田信長の必勝祈願の【熱田神宮⛩】、



【箱湯神社⛩】、【三嶋大社⛩】と源頼朝ゆかりの神社も続き、


言霊をことのままに叶えてくれる【ことのまま八幡宮⛩】、


他にも、浮世絵には江の島神社の鳥居や、

富士山眺望、富士山とセットで三保の松原眺望、


また、箱根駅伝は、東海道をルートにしているが、時宗総本山の遊行寺🔔や、

東から見ると寝観音にみえる薩埵峠、

徳川家康が人質時代を過ごした清見寺🔔

などなど、


また、道を照らすだけの常夜灯としての機能だけではなく、木造建築の多く立つ宿場町の目印となる常夜灯には、火伏せに『秋葉山』と書かれている。


東海道五十三次の整備は、戦国時代の後に征夷大将軍となった徳川家康の全国を統治する為の政策、五街道の整備一つだ。


それは、国を富ませる交通網の整備と共に、

東に遠征中の武家の長の意味のある征夷大将軍として武士を治める為に、参勤交代として大名家を江戸幕府の将軍の元に通わせ、武力の暴走を抑え、宿場の本陣の旅籠に泊めさせ、武器ではない場所、地域経済に資金を流れるようにした様だ。


入り鉄炮出女を取り締まる"関所"があり、

『箱根八里は馬でも越えるが越すに越されぬ大井川』とある様に、峠の他に、あえて大河に橋をかけさせなかった。


これは、ただ交通網を整備したのではなく、

戦乱の世を治める為の政策でもあった。


他にも、大名家通しの鉢合わせによる衝突をさける遺構や岡崎宿の二十七曲がり等、交通の道としてだけでは非効率な箇所が見られ、これは統治の為の物理的な機能だとわかる。

(茶室の入り口である躙口も、玄関としてなら非効率だが、太刀をつけたままは入室できず、蹲・つくばいと共にどんなに普段、権力があっても主客対等、礼を忘れない為の機能である。)


旅籠の最上位は、本陣と言い、中間は、脇本陣と言った。

この格の旅籠は、名字帯刀の商人になったり、旧家や、元から武士の一族が営んでいた。

つまりは、旅籠は、現在の日本の旅館の原点の一つであり、江戸幕府からしたら治安維持の警護部隊の一部だった様だ。


現在、国道1号線となっている日本橋を起点とした交通網として、道路としての機能の一面。


それとは別に、一面では、江戸幕府を開いた徳川家康の朝廷の臣で東方に遠征中の軍部の長の意味の征夷大将軍としては…、


参勤交代で大名家(武家)に江戸幕府に通わせ、

道路としてだけなら未完成と思わせるような、大河には橋をかけず、峠を越えさせ、

宿場町の本陣に宿泊させて武力以外に資金を当てさせた。


そして、東海道を現在の国道1号線に合わせて、京街道を含めた五十七次だったとする説がある中、

では、浮世絵の東海道五十三次が、なぜ、53で、始点が、江戸 日本橋で、終点が、京都 三条大橋なのか…?


それは、物理的な統治とは別に、心理的な統治もあったのではないか?


この心理的な統治は、戦いの戦略には、古代中国でも使われた事と三国志の諸葛公明の話にもあり、キリスト教の世界でも、日本の神話にもある。


つまりは、朝廷の帝の臣下であり、東方へ遠征中の武家の長である江戸幕府を起こし征夷大将軍となった徳川家康の旗印に書かれていた『遠離穢土欣求浄土』の穢土は、江戸であり、

その江戸の日本橋から京都の朝廷の帝の元へ行く道、

京都の朝廷の帝を普賢菩薩と重ねて、

華厳経の善財童子が五十三人の師に合い悟りを開く修行の旅に重ねて、

巡礼の道、登竜門としていただろう。

そして、そう考えると、東海道五十三次も信仰心からの心理的な、あるいは風水的な統治という事になる。

そうなると東海道中膝栗毛がなぜ巡礼の話になっているのかに繋がり、

また、道中に多数の有名な神社仏閣⛩がある事に気づく。


江戸城の周りが強大な結界となっていると言われる事、

江戸城の方位に神社仏閣が置かれいる事、

それ以前に、

徳川家康の遺骸は遺言に従い久能山東照宮に葬られ、その後、富士山を通り直線に繋がれる、日光東照宮に祀られ、自身は、東照大権現になった事から、東海道も五十三次である事に意味があるのだろう。


また、そう考えると、

終点である三条大橋からは、三条河原が見えたそうだ…


三条河原はかつて有名な処刑場だった場所であり、

それは、三条大橋を終点とするには、精神的に適切な効力が働いたのだろう。


東海道は、53で、『東海道五十三次』。


そうなると、もう一つ、江戸 日本橋から京都 三条大橋まで繋がる道がある。


それは、中山道だ。


中山道は、浮世絵では、木曽海道六十九次となっている。


今度は東海道と重なる2宿場町を除く説があるが、そうせずに、中山道を69とすると…、


これは、古代中国から伝わる『陰陽思想』ではなかろうか?


東海道も中山道も江戸時代のこの二つも、国を治める為の精神的な政策だったのではないか…?


(ちなみに、お遍路には"逆打ち"という最終番号から最初の番号へ回る巡礼法があるが、東海道五十三次を京都から江戸へ向かう"逆打ち"は、しきたりでは、必ず旅籠の本陣に泊まるので大名家の"余分な力"、つまり、戦乱の世を繰り返さない様に時代に不必要な武力を抑える意味があったが、つまりは『余分なものを削ぎ落とす』、それは厄落とし、そう言えば、川崎宿から品川宿までの道中には厄除けで有名な川崎大師がある。順打ちは登竜門で、逆打ちは厄除け・厄落とし。そうなると、徳川家康が張った東海道五十三次と木曽海道六十九次という結界が、いつの間にか弱まったという事も言えるのかもしれない。)


とにかくは、


東海道五十三次は、華厳経の善財童子を元にした巡礼の道であり、悟りを開く登竜門…


だと言え、いきなり人間が、巨大化して、デイダラボッチ(ダイラボッチ。一人旅なのでボッチ…、ひとりぼっちではありますが…)になったらびっくりしますが…、


東海道 興津宿の最後の旅籠として東海道を歩くと、私の家業は、興津だけではなく、東海道五十三次でも"最後の旅籠"なんだとわかった…


当時の幕末の動乱、疫災、飢饉、大地震などの天災、2度の世界大戦を乗り越えて来たのだろう。


かつては、格式は、本陣にも脇本陣にもなれなかった…

しかし、生き残った…


(近くの本陣・脇本陣だった旅籠の主の残した『いずれかえってくる』という言葉、我が家の先人の遺言、家紋がかたばみに武家を表す剣、もしかしたら、本陣や脇本陣になった旅籠が、本陣では制約もあり動きにくいことも名誉の格式とは反対に持ち合わせていたのであるから、時の流れから、古き良きものを残す為、分家のような枝分かれにより、いきなり旅籠・茶屋として、我が家の岡屋は生まれたのかもしれない。そう話した水口屋は武田信玄の一族、海山堂に隠棲していた中根香亭もそうで、今川家の人質であった時に徳川家康が住んでいた縁の地。しかし、はたして、こう話す私は、三国志の、乱世の奸雄・漢の丞相の魏の曹操なるか?それとも、漢の中山靖王の末裔で劉皇叔とも呼ばれるに至った蜀漢の劉備玄徳なるか?…)


それは、最後の旅籠となった今後は、私の家業の宿の評価が、そのまま、かつて三千軒あった旅籠の評価になってしまう…

どれだけ偉大な宿があろうと…

それだけ責任は重大だ。


現在の日本の旅館の原点は、

湯治場の湯治宿(温泉宿)の流れを汲む旅館と、

我々の様に本陣を筆頭に江戸幕府の政府側の公認の宿である旅籠の流れを汲む旅館だ。


本陣の格式まで旅籠が上ると、武家屋敷さながらの立派な門構えの屋敷になり、大名家や公家を相手に宿を営むことになるが、その代わりに一般客は受け入れることができず、江戸幕府が滅ぶと、本陣も滅んで行った。



反対に、一般旅籠や中間部の格式である脇本陣は、一部は金儲けに走ったりし、また、それを嫌う旅籠により一新講社などの旅籠の組合ができるきっかけにもなったが、江戸幕府が滅ぶと駅前に移動したりする旅籠が増えたりもして、当時からその宿場の、当時から同じ場所で、宿を営む旅館は減って行った。


ここから、逆境を乗り越えていく術は、

火事場泥棒の様にはならず、

まずは、

世の為人の為になり、お客様に対価に見合う適切な価値を感じていただける宿という商品を提供することにあるのだと改めて思う次第です。

これはどんなビジネスにも言えること、三方よしの理念ではないでしょうか。


また、それは、世界に日本の旅館の原点である旅籠とはこんなに素晴らしい物だと魅せること、

その為の温故知新、日本の文化や伝統を学び、魅せる為の努力をする必要性に繋がるのではないでしょうか。


『――かつては、常に身を馬上におき、艱苦辛酸を日常としていた自分が――ああ、いつのまにこんな贅肉を生じさせたろうか。日月の去るは水の流るる如く、かくて自分もまた、なすこともなく空しく老いて行くのか……と、ふとそんなことを考えだしたものですから、思わずわれとわが身を恥じ、不覚な涙を催したわけでした。どうか、お心にかけないで下さい』

(三国志 吉川英治 荊州にて食客時代の劉備のセリフ)


という事で、「東海道五十三次 "最後の旅籠"。それは江戸時代の興津宿にありけり。その町は世界遺産・みほのまつばら裏磯のかつて天下の清見潟…。そんな『宿と町の再興を目指して…』私のさすらいの日々はまだ続くのかもしれない。