望嶽亭藤屋と山岡鉄舟 | 東海道五十三次・最後の旅籠 次期八代目当主、台風の目と称された興津 清見潟の宿と町を目指して…

東海道五十三次・最後の旅籠 次期八代目当主、台風の目と称された興津 清見潟の宿と町を目指して…

東海道五十三次 興津宿 "最後の旅籠" 岡屋旅館 次期八代目当主 岡屋弥左衛門松太郎。

東海道 宿場町の本陣・脇本陣を筆頭にした三千軒の旅籠を背負って、
台風の目と称された
【世界遺産・三保ノ松原】 裏磯、かつて天下の清見潟…そんな宿と町の再興を目指して…。


明治元年西郷隆盛と会談する為に静岡に向かう山岡鉄舟は、薩埵峠で官軍に追われて引き返しました。
ここ、由比宿と興津宿の『間の宿(あいのしゅく)』で江戸時代は脇本陣も務めた望嶽亭藤屋の蔵屋敷で漁師に着替えて階段を降り海から小舟で脱出しました。
その後、江尻の清水の侠客・清水次郎長の元で身を隠し、駿府へ行き西郷隆盛と会談し、『無血開城』が成功しました。
望嶽亭藤屋には、山岡鉄舟が置いていったフランス式拳銃が残されています。

〜明治元年三月七日〜
山岡は、『由比』倉沢の薩た峠に差し掛かった。
ここは、五十三次の中でも難所中の難所と言われ、海岸沿いの道は、波にさらわれないで渡りきる潮時が難しく『親知らず子知らず』と呼ばれていた。もう一方の山道は切り立った崖に沿って曲がりくねった細い峠越えの道が通っている。普段は真っ暗闇であるが、この時は、官軍のかがり火が煌々と焚かれ怪しいものは虫一匹通さない警戒ぶりである。
しかし、山岡は峠越えの道を選び急ぎ足で急坂を上って行った。晴夜の六日月に照らされた海辺の道は、いまだ潮が引ききらず通れなかったのである。
道半ばまで上ったその時である。官軍の先兵から
『止まれ!誰か?』
と誰何された。益満が居れば何とか通れたかもしれないが、如何に山岡と言えども一人では官軍の中を突破できない。山岡は急ぎもと来た道を走って引き返した。官軍の兵は、怪しいと見てしきりに鉄砲を撃ってきた。ここで犬死するわけにはいかない。山岡は拳銃を打ち返しては必死で逃げる。官軍は追う。とうとう峠の上り口の望嶽亭の前迄追い返されてしまった。
『もうここは望嶽亭に逃げ込むしかない。』
万に一つの望みを託し玄関の表戸を静かに叩いて、官軍に悟られぬよう押し殺した小さな声で叫び続けて助けを求めた。
『たのむ!たのむ!』
『・・・・・・』
『たのむ!たのむ!』
『・・・・・・』
望嶽亭の二十代当主、松永七郎平の女房かくは玄関の木戸の側まで行ったが、不穏な情勢の時であり夜中でもあるので戸を開けない。暫く様子を見ていたが、戸も叩かず声も途絶えたので、怪しい者はあきらめて去ったものと思い、安堵と怖いもの見たさも手伝って、そーっと戸を開けた。
と、その瞬間である。かくを押しのけて一人の巨漢が侵入して来るや、いきなり玄関の土間にひざまづき名前は名乗らずに事の次第のみを七郎平に訴えた。
『私は、将軍徳川慶喜の名代として駿府の大総督府を訪ねるために江戸から来た者です。今、峠の中ほどに差し掛かったところ官軍の兵に追われて困っています。大事を成し遂げるためには、ここで敵の弾に当って犬死するわけには参りません。是非とも匿って逃がして下さい。お願いします』と。
主人の七郎平も大物だ。多くの人物を見てきているだけに『これは只事ではない。深い訳の有るお方だ』と咄嗟に判断し怪しむ家人を押さえて鋭く叫んだ。
『蔵座敷だ!蔵座敷だ!』
主人の命とは言え今まで蔵座敷には大事なお客様しか通していない。ましてや真夜中に暗闇の中からいきなり飛び込んできた正体不明の者を通して良いものか家人は一瞬迷った。そこへ再び七郎平が押しかぶせるように命じた。
「蔵座敷だ。蔵座敷だ。早くお通ししろ!」
 山岡を中に通すと家人は厚く重い漆喰作りの扉を閉めた。そこは、母屋とは切り離された十五畳の客間である。
そこで七郎平は改めて山岡と対面し名乗りを受け、話を聴き終えると力強く答えた。
「事の次第は良くわかりました。この七郎平、命に代えてもお匿いしお逃がし致します。」
 と言うと同時に七郎平は一策を思いついた。
「陸路は危ない。海路を舟で逃がすしかない」と冷静に判断すると、直ちに女房のかくに命じて漁師の着物と履物を持って来させ山岡に急いで着替えるように促した。山岡は着物を脱ぎ、持ち物、刀、慶喜から直に渡されたであろう拳銃の全てをそこに置き、薄汚れた手拭いで頬被りをした。すると、女房かくは、素早い動きで着替えたものの一切を隠してしまった。これで立派な漁師が出来あがった。
当時の藤屋は網元でもあり多くの漁師を抱えていたので漁師の着物位は何時でも間に合わせられたのだ。
次に七郎平は、筆と紙を持って来させ、清水の侠客次郎長に手紙を書いた。そこには、
「このお方は大事なお方だから過ちの無いように良くお守りして駿府まで無事に届けてもらいたい」
と書いてあった。
次郎長は、少年時代の九歳から十五歳まで由比に有る義母の実家や縁続きの家々に、たらい回しのようにして預けられていた。その時に、松永家の十九代当主嘉七は次郎長の面倒をよくみていたのだった。
七郎平は、書き終えた手紙を山岡に渡しながら静かに言った。
「山岡さん、ゆっくりはして居られません。いつ官軍が踏み込んでくるか分かりませんから。貴方が居らっしゃる時にここへ完軍に踏み込まれたらここは修羅場になってしまいます。そうなれば貴方も困るでしょうし、私も宿の主人として大変な荷物を背負うことになります。委細はこの手紙に書いてありますからこれを持って早く逃げてください」
そう言っているうちに玄関の方から店の若い衆が「官軍じゃ!」と声と合図を送ってきた。七郎平は、蔵座敷の左隅に有る半畳の置床を外すとその下の隠し階段の引き戸を開いて「山岡様、私が舟までご案内致します」
と言うが早いか地下に通ずる階段を先に駆け降りた。山岡も急いでそれに続いた。外に出た二人は足音を忍ばせて繫いである櫓舟にたどり着いた。そこには腕利きのかかえ漁師、栄兵衛がいつでも漕ぎ出せる支度をして待っていた。
「山岡さん、それではお気をつけてご無事を祈っております。栄さんしっかり頼んだぞ!」
と七郎平は一声掛けて艫を沖へ向けて押し出した。それを合図に栄兵衛も満身の力をこめて水棹を突いた。舟は引き潮に乗り沖に向けて消えて行った。
 一息ついた七郎平が表の間に戻ってくると再び表戸をドンドンと叩く者が居る。
「誰だ!」
と七郎平は訊ねた。すると
「官軍じゃ!ここの戸を開けろ!」
と大声で叫び返してくる。
七郎平は、この場に自分が居てはまずいと判断し、女房のかくに「後は、頼んだぞ」と目配せをして、再び離れの蔵座敷の隠し階段から浜に下りて姿を消した。
 普段、階段の入口には半畳の置床が置かれ茶掛けが掛けてある。
初めての者には、その下に秘密の隠し階段があろうとは想像もつかない。
「何をしているか、早くここを開けろ!」
官軍の兵は表戸を破れんばかりに叩き続ける。
かくは、階段の入り口が元の姿に戻されたことを見届けると表戸を開けた。
開けると同時に抜刀した十人ほどの兵達が飛び込んで来て
「主人は居るか!女将は居るか!」と
大声で叫んだ。
「主人は、商用で他所に行っていて留守です」
かくは落ち着いて答えた。
すると官軍は
「嘘を言うと為にならぬぞ。『誰だ?』といったのは誰だ!」と
厳しく問いただしてくる。
「倅の嘉平でございます」と
かくが答える。
「よし、それならば嘉平とやらと一緒に使用人全員をこの部屋に集めろ!」
かくは女中に命じて全員を蔵座敷に集めた。
「この家に武士が一人逃げ込んだであろう」
「いいえ、一人も来ておりません」
「来ただろう!隠すと為にならんぞ。隠したとあればお前達全員の首をはねてこの家屋敷に火を放つぞ!」
と、かくの頬に刀の鎬地をヒタヒタと当てて厳しく尋問する。
「お侍さん、私達はお咎めを受けるようなことは一切しておりません。もしも、お疑いでしたら屋敷内の隅々までよくお探し下さい」
元は武家の出で、はらの座ったかくは落ち着いて正座をしたまま答えた。
「よし、言ったな。屋敷中をくまなくさがせ!」
兵達は隊長の命を受け藤屋の中のいたる所を探索した。
人が隠れていそうな布団部屋や納戸の前まで来ると、兵達は襖や木戸を最初に銃剣や刀で突き刺してから戸を開けて中に入り、布団や衣類を突いては跳ねのけて探し回った。
 しかし、誰一人として出て来なかった。山岡はすでに海の上である。
すると、隊長は急に態度を改めて
「騒がして大変済まなかった」
と一言詫びて小判を二、三枚置いて立ち去った。
兵達は、探し物が見つからぬ腹いせに足元の畳を槍や刀で何回も突き刺し、荒々しい息遣いとけたたましい足音を立てて隊長の後に続いた。
 一方、山岡を乗せた漁師の栄兵衛は、無事江尻湊(現清水港)まで漕ぎ着いた。二人は舟を下り周囲に気を配りながら次郎長の家にたどり着いた。
七郎平からの手紙を読み終えた次郎長は
「良く解った。倉沢の坂口(藤屋の屋号)からの頼みとありゃこの次郎長、命を懸けて守ってやらあ、安心してくりょう。俺ゃ若い時分に、親父さんにゃ随分世話になった。良く俺を頼ってくれた。恩返しの積りでやらせてもらうぜ。ご苦労だったな栄兵衛。倉沢の七郎平に宜しく言ってくりょう。」
と栄兵衛に答えて二人を座敷に上げ暖かくもてなしゆっくりと休息させた。
次郎長はその夜、家の周りに一晩中子分達を張り付けて厳重な警戒を怠らなかったと言う。
 栄兵衛は、庄屋・望月久兵衛の次男であり、次郎長が倉沢に預けられていた頃の遊び仲間であった。年下の七郎平も二人には可愛がってもらった遊び仲間であったので、大人に成ってからも互いの気心は良く解り合っている仲であった。

三月八日
山岡は、逸る気持ちを押えて次郎長宅でゆっくり休養した。明日は大総督府に行かなければならない。しかし、武士の着物も履物も腰の物も全て望嶽亭に置いてきてしまっている。
次郎長は、自分はもとより、子分達をも手分けして走らせ武士の支度を整えた。後は大事な明日を待つばかりである。

三月九日
三月七日夜半の峠での出来事もあり、官軍の警戒はどこも厳重を極めていた。
次郎長は、子分と共に自らも護衛役と道案内を買って出た。山岡の前を次郎長が、左右と後を子分達が固め警戒の厳しい東海道を避けて久能街道から駿府に入ることとした。
久能街道の駒越に出てからは、海を左に見ながら西に進み増村-蛇塚-西平松を経て大谷に着いた。ここからは海を背にして有東、八幡、南安東を過ぎ、ついに、目指す駿府伝馬町の桐油屋松崎源兵衛方に到着した。

九日に西郷氏との談判を見事に果たし急ぎ江戸に向う途中、山岡は、望嶽亭に立ち寄って一、二声掛けて立ち去ったと伝わっている。

その後、山岡が望嶽亭に寄ったそうである。主人が
「拳銃をお返し致します」
と言ったところ、山岡は
「今はもう平和だから要らない」とさりげなく答えて置いていったそうである。
今、望嶽亭に残されている拳銃が、正にその拳銃なのである。