10年経って今思うこと | You-SuKe official blog

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シンガーソングライターYou-SuKeのブログです。

昨日ブログ書いてたら、寝落ちしてたぽいので、一日遅れでアップします。

 

震災10年の記念事業の冊子が気仙沼から送られてきたので、一気に読みきって、唐桑(気仙沼市)の人にお礼の電話をして話してたら10年前を思い返してしまった。

今になってから思い出すこともあるくらい、あの時は余裕もなくただただ目的を果たすために突っ走ってたんだなぁと。

 

ちょっと長くなりますが、コロナ禍の暇つぶしにでも聞いて下さい。

僕が最初に気仙沼市に入ったのは確か2011年3月30日か31日でした。

その1週間以上前には行くことを決めてたのですが、

車の燃料の調達、救援物資の取りまとめ、1週間自力で生活する為の必要な物資の調達などに手間取って結局出発できたのは気仙沼に着く2日前でした。

今でこそ6,7時間で着きますが、あの時はオンボロ1t車に完全な過積載(おまわりさんごめんなさい)でアスファルトが波打ってる東北道をアクセルべた踏みで時速70kmのスピードで向かったので2日近くかかりました。

 

気仙沼に入って、海が近くなると完全な別の世界だと思うほどの光景で、ショックで完全に打ちのめされてその後2日間くらいは僕は使い物にならなかったと思う。テレビ越しとは全く違う景色だった。

気仙沼市のボランティアセンターは前日に立ち上がったばかりで、まだ本格稼働は出来てなかったので、どの地区にボランティアに行くかを伝えて自力で動く事になりました。

 

気仙沼市の唐桑地区(旧唐桑町)に僕ら(3人)は向かった。

この地区は気仙沼の街中とは違って人口も少なく外部の人間はこの状況でおよそ来ることはないだろう漁村でした。

県外ナンバーの怪しいトラックにしか見えない状況で、(通報もされました…)唐桑町の鮪立という所にある避難所の長に「なんでもやります!」の熱意が伝わりお許しを得てこの地区で活動する事になったのです。

 

トイレ掃除に炊き出しの手伝いなどをしつつ、怪しまれながらも沿岸の一軒一軒を回ってガレキの撤去などをやりました。数日すると僕らの噂が広まったのかこっちにもこっちにもとオファーが沢山あり、おかげさまでクタクタになるまでお手伝いできた。

といっても1日1,2軒のペースでしか進まず途方に暮れたものです。

 

最終日の夕方に避難所に帰る道で夕日を見ながら感じたなんとも言えない「無力感」は今でもはっきり覚えてます。

一人の力のなんてちっぽけなことか、こんなペースでガレキの片付けしてたら復興なんて無理だ。そして僕は心に決めた。何をするのか。

 

それは「この街に一人でも多くの人を巻き込む事」

これが全てだと思った。どんな形でもいい、一人でも多くの人をこの土地へ連れてきて、何かを感じてもらえれば、それから何かが起こるかもしれない。僕が直接関わらなくてもここへ来た人達が何かアクションを起こして、また人を呼んでくれるかもしれない。

そうしたら、僕だけじゃ到底できない大きな力にきっとなる。

 

そう思って、数年間は無我夢中で行動した。

その甲斐あって沢山の人達が関わってくれたと思う。

ミュージシャン活動なんてやってると色眼鏡で見られる事もあっただろうし、色々思われただろうけど、あれで良かったと思ってる。

数年後に自分が被災しても東北の事ばかり考えてた。大雪で生活の糧を失って先が真っ暗になっても、東北に比べたらなんて事ないと思って頑張れた。

 

人は自然の前では無力で弱いけど、生きる希望を持って助け合って頑張ったなら、なんて強いんだろう。

10年前のあの時、地元の誰かがタオルに書いて励ましたあの「がんばろう!」から、この10年を振り返って、今はそう思います。

 

さて、また明日からの日を頑張るとしますか!

話がまとまりませんが、このへんで!(笑)

 

 

最後に「じいちゃんの海」でも貼っときます!