ドラゴン桜の最終回をまた観ました。
2回目です。このあと一話に戻って、
またもう一周視聴したいと思っています。
最終回を見るのは2回目なのに、
また最初から涙が出てきて、
なんかふるえました。
心が、魂が、ふるえます。
試験前日の緊張感とか、
合格発表の時の長澤まさみさんとか。
そして、合格発表をみんなで見に行くシーンで、いつか息子もどこかの大学を受験して、こんな状況に身を置く日が来るのかなぁと、来たらいいなぁと考えました。
そのために、私は今、躍起になって、子供の勉強をみているんですよね。
最終ゴールはここなんだなぁと思い知らされました(東大を目指しているわけではないです)
前にも記事にしたんですけど、
自分の時間を捧げ、暴言を吐かれても、
頑張って子供の勉強をみることは、
私の見栄のためなのか、
無償の愛なのかという問題がありました。
その日の記事がこちら。
それにもう一つ仮説が加わりました。
仮説というか、結論か。
ドラゴン桜を観ていて思い出しました。
なぜ、こんなに涙が出たのか、
魂がふるえたのか。
それは、長い間、蓋をしてきた、
自分の大学受験の記憶を思い出したからです。
私は行きたい大学に行けなかったから、息子にはそんな経験をしてほしくなくて、息子の行きたい大学に行ってほしくて、そのサポートを今しているんだと思っていた。
でも、多分これも、私の行きたかった大学に、なんですよ、きっと。結局そうなんです。
自分の叶えられなかった夢を子供に託すのは良くないよと言われたことがあった。
確かにそうかもと思っていたけど、
そんなんじゃない。
そんな生ぬるいもんじゃなかった。
これはリベンジだった。
リベンジという言葉が一番しっくりくる。
子供のサポートと称して、
受験を疑似体験して、
自分の後悔を晴らそうとしているんだ。
だから、こんなに必死だったんです。
見栄でも無償の愛でもなかったんです。
いえ、見栄も無償の愛も、
いくらか混じっているとは思うのですけど、根底は、自分のリベンジのためだったんです。
ドラゴン桜を見ながら、
そんな考えがストンと自分の頭の上に落ちてきて、ハッとして、ちょっと怖くなりました。
そんなことに付き合わされる息子はたまったもんではないでしょう。
息子の人生をそんなことの道具に使ってはいけません。
彼の進路はちゃんと彼に選択してもらう。
彼の人生はちゃんと彼の人生だから。