ある日

息子が自分の顔の写真を2つ並べて

ビフォーアフターみたいにして送ってきた。



「同一人物?」


「3ヶ月前のおれと今日の俺」


と書かれていた。



見るとたしかに

その2つの顔はずいぶん違う。




3ヶ月前の顔は

シュッとした印象だが


アフターの顔は

髪の毛がなくて輪郭がふくらんでいる。



髪の毛が抜けたのは抗がん剤によるもので


顔がふくらんでいるのは

GVHD、あるいは薬剤によるむくみだろう。



人の顔って

髪の毛と輪郭の違いで

こうも変わってしまうのか。




そして

当然といえば当然だが


息子は自分の顔が良くないほうに変わってしまったことで少なからずショックを受けていた。




この頃


ビデオ通話をする際に

息子は自分の顔にエフェクトを施すことが多くなっていた。




顔の周りにドーナツやピザがついていたりするときもあれば


犬とかパンダとか

やれば誰でも可愛い顔になるようなもののときもあった。




その犬かパンダの顔のときに


「可愛いね」


と言ったら


「こうでもせんと自分の顔見たくないわ」


と息子は言った。




ふと漏らされた本音を聞き心が痛んだ。




私が感じた心の痛みは


息子の辛い気持ちがよくわかるのと


自分の大切な人が

その外見なり内面なり自分自身の何かを否定していることからくるものだ。




我が子が

自身を否定する姿を見るのはとても悲しいことだ。



だけど

息子の気持ちがわかるだけに


そんなこと言わないで、とは言えない。



親の目から見れば


どんな顔であっても息子に対する感情に変わりはないが


だからといって


顔なんてどうでもいいのよ、などとは言えない。



もしもこれが自分だったら


顔なんてどうでもいい、なんて到底思えないし


そんなことを言われたら


アンタに何がわかるんだ、と思ってしまうだろう。



髪の毛もそうだけど

いつになったら生えてくるのかわからないし


顔の輪郭だっていつになったら


いや、元の顔に戻るのかも定かではないのだ。


だから


いつかは戻るよ、などと安易なことも言えない。




息子は


「自分の顔を見たくない」


と言うことで


私がかける言葉もなくて困るであろうことを


無意識のうちに察知して


何事もなかったかのように雑談をつづけた。





この先


これに似たようなことがたくさんあるだろう。




息子の辛さを知るのは


こちらにとっても辛いことではあるけれど



私は

息子がそれを吐き出すことができる存在

受けとめられる存在でありたいと思う。