ファンタジーな登場人物とリアルな親の狭間で悶える夢見る女の子を描いた『ロミオとシンデレラ』。昔、カラオケに行くと誰かしらが歌っていました。お誕生日記念企画第15弾は実は結構積極的な恋愛ソング『ロミオとシンデレラ』について考えてみます。



 "動画投稿は2009年4月6日。作詞作曲はdoriko。VOCALOID伝説入り(100万再生超え)"

 執筆現在でdorikoにとってニコニコ動画では最も再生数が多い動画。980万再生を超えており、神話入りまであとちょっと。調性は多分長調(後述)。


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 楽曲形式は次の通り

intro-A-B-サビ-間奏1-A-B-サビ-間奏2-C-ラスサビ-outro

 典型的なJPOPスタイル(A-B-サビ)。歌唱部分は2番→Cメロ→ラスサビと割とシンプルな形式。イントロには歌あり部分と歌なし部分があり、分けようと思えば分けられるがめんどくさいのでひっくるめてイントロとした。


ここから調判定、気にならない人は飛ばして

 楽譜が載せられればいいのだけれど、載せる技術はないので言葉で想像してほしい。

 この楽曲はイントロ・Aメロ・Bメロ・間奏に長調の雰囲気が漂う。主旋律と伴奏から見て、これらの調についてはリディア旋法か長調が考えられる。

 リディア旋法を主張できる理由は、①挙げたすべての部分がリディア旋法のI(長調ではIV)の和音で始まること。②Bメロのアウフタクトがリディア旋法のiii(長調ではvi)の音からはじまり、主和音の構成音であること。③長調の主和音がほとんど現れないことである。これにより長調の第4音を半音上げたリディア旋法でないかと考えられる。

 一方で、長調側の反論として①音楽がIVで始まることは珍しくない。②アウフタクトが和声外音であることはよくある。③主和音は少ないが主和音へ進行するときはカデンツを伴うことと、AメロとBメロはすべてのフレーズの終止が長調における完全終止、半終止、偽終止と考えられることが考えられる。

 長々と書いたが、ここでは「長調」側に軍配が上がると思う。なにより調性において「終止」の力は大きい。ということで、誰も気にしないようなことではあったが、ここでは「長調」で考える。

調判定ここまで



 イントロは歌ありと歌なしの部分がある。歌あり部分はブレスからスタート。(ミクにブレス音なんてあるのだろうか?)なんか聴いたことあるようなメロディだが、ここの部分オンリーのメロディとなる。聴いたことあるような理由は、この部分のはじめがBメロのはじめと似ていること。その後に続くメロディがサビの途中に似ていることが理由である。でも、細かく見ると違う。歌のメロディは順次進行を基本としたもので、四分音符より長い音が多く、しっとりゆっくり語るようである。

 歌なしの部分は雨だれのようなシンセが特徴的。(vii→)i→vii→iiiという音で、iの音が倚音(または刺繍音)のように聞こえるため、iiiの和音の性質を持っているように感じる。イントロ部分はivやviの和音が基本となるが、この"雨だれ"はそれらと性質が異なるので浮いているように感じられる。言い方を変えればサイズの合わない帽子を被っているような感じ。



 Aメロはviの和音に対して"雨だれ"を反対にしたようなviiの音を中心としたメロディで始まり、不安定な"いずい"音楽となる。イントロの歌なし部分同様に「浮いている」とも表現できる。一方で、それに続くメロディは和音構成音を中心とした落ち着きのあるメロディとなる。Aメロ全体に通して言えることは、完全4・5度の跳躍が多く、響きが空虚になっている。その分順次進行や小さな二・三度跳躍は少し感情が見えるようだ。

 コード進行は"いずい"部分はすべてIVで、コードに変化がないことも浮遊感を演出している。その後はii-V-I(orvi)と続き、いずれも強いカデンツなので一区切りついた感じがする。



 Bメロは八分音符のアウフタクトから始まる。アウフタクトのメロディは最後で下行し、次の音へはやや大きめ(完全5度)の跳躍上行となる。「アウフタクト」という効果もあって、言いたいことを溜めて強く訴えるような印象がある。音型は順次進行が多く、Aメロに比べて温かさがあるというか言葉に感情がある。またフレーズの前半は、中心となる音が和音の第7音(いわゆるセブンス)にあたり、順次下行への推進力がある。音楽的な推進力の通りに少しずつ音の高さが下がっていき、高慢な感じからからだんだん甘えていくような感じとなる。Bメロ最後は、その流れを破って高い音となり強い訴えを感じる。サビ直前にピー音が入る。

 コード進行はIV7-IV7-iii7-vi〜と続き、最初3つ(3小節)の7thがフレーズの中心の音になっていた。この流れはiii7-viで一応解決するため、その後に不完全燃焼感を残すことはない。




 サビは同主調の短調に転調する。AメロとBメロの特徴を合わせたような音楽。iiiの音からviiの音への完全5度跳躍が目立つ。先出しで一回跳躍する部分はシンコペーションも伴うこともあるので、思いが堰を切って先走ったような感じがする。対して、すぐ後の跳躍部分はiiiの音がアウフタクトの役割をし、伝えたいことを一生懸命に相手に届ける(むしろ押し付ける)ような感じとなる。続くフレーズは(直前に比べれば)低めの音となり、内向的で冷静な音楽となる。同じようなフレーズを2度繰り返したあと、また完全5度の跳躍から始まるしっぽがつく。しっぽの終わりは四分音符の順次進行なので、落ち着いた語り口調となる。しっぽを除くサビ全体に言えることとして、同音連続が多く切迫して胸に募ったアレコレをとにかく放出するような印象を持つ。同音連続の部分はただひたすら言い並べる感じである。

 コード進行についてはこの楽曲では珍しくiの和音から始まる。これは短調なのでもちろん短三和音だが、次からは長三和音が続く。メロディと照らし合わせて見ると、最初の同音連続が多い部分はiの和音(短三和音)だが、"先走った跳躍"を境にVIの和音(長三和音)となる。iとVIはどちらも機能和声的にトニックの機能を持つため「気づいたら長三和音に!」みたいな同質の進行をする。そして本腰の跳躍の部分はIIIの和音(長三和音)に進行する。iもVIもIIIも機能和声的にトニックの機能を持つ。(IIIはドミナントっぽさがあるため、特に長調ではあまり使わないけど)。そのためVI→IIIも同質の進行をするかと思いきや、その2つの間の度数を見てみると完全5度(の上行)となるので、VIからみてIIIはドミナントの性格を持つ。つまり、T→Dの進行のような"広がりのある進行"となる。

 長々と書いたが、要するにサビの序盤はメロディの跳躍を境にコード進行がどんどん明るく広がりを持つようになる。短調の曲ではあるが、希望に満ちた表情を見せる。

 しっぽはVI-VII-i(自然短音階)となる。徐々に根音が上がっていくので期待が高まるが、結局はiの短三和音で抑えつけられたような、悶々とする終わりになる。サビの途中にあった希望は幻想だったのかもしれない。



 間奏1はイントロの歌なし部分みたいな音楽。



 間奏2は新しい音楽でギターソロ。こんなにしっかりしたギターソロは最近少ないので嬉しくてニヤけてしまう。


 Cメロはメロディ中の音が半音ずつ下がっていく。しっとりとしたねちっこさがある。後半は順次進行で下がりきると思いきや跳躍で上がるので「まだ話は終わんないよっ!」みたいな感じがする。前半の伴奏はちょっと静かになるので、落ちサビ的な効果がある?



 ラスサビは1・2番のサビに比べて長二度上の短調に転調。長二度上は♯形の転調となるため明るさが出るが、この曲の場合はその明るさが"強がり"に感じられる。1・2番のサビの「しっぽ以外」を1.5倍(フレーズ3回)にしたような音楽。

 もしもの話ではあるがこんな考え方はどうだろう。ラスサビの「しっぽ」もコード進行はサビと同じVI-VII-iである。だけれども、ちょっとくらい音楽に変化をつけてみたいとは思わないだろうか?楽曲の構造を壊さずに短調の曲で使えるテクニックとしてよくあるのは、ピカルディ終止・偽終止・同主長調の主和音への解決である。今回のメロディの最後の音はiiiの音なので、ピカルディ終止(主和音の第3音を半音上げる)はメロディを変えてしまうので使いたくない。偽終止(VIで終わる終止)はVI-VII-?と来ているので後戻りする感じで効果が少ないしあまり解決感がない。となると最有力なのは同主長調の主和音への解決だろう。最後の音のiii音は同主長調におけるi音であり主音である。つまりコード進行をVI-VII-IIIとするだけで同主長調のカデンツとなり、メロディを変えずに雰囲気を「明るく」できるのだ。

 ここまで書いておいてアレだが、このテクニックが使われずにこの楽曲が完成したことは結果として良かった。サビの分析で書いたが、希望に満ちた音楽が最後のしっぽで憂いを持って終わるのは美しい。"安易な"味付けに惑わされず、この楽曲が持つ味わいを自然なまま提供してくれたのはdorikoの素晴らしいセンスの賜物と言えるだろう。これでは分析でも何でもないな。



 アウトロはイントロの歌なしのような音楽。最後はラスサビの調の主和音で終わる。変に余韻を残さないのでここまでで終わり!感が強い。ハッピーエンディングかバッドエンディングかは分からない。



 ここからは歌詞に触れていくが、いつも通りに一部分だけ引用する。


 「悪い子」なのか「良い子」なのか、恋をする女の子にそんな物差しは似合わないでしょう。みんながみんな「本気」で「本当」なのだから。良いか悪いか決めるのはいつでも外野でそれに左右されてしまうのも純情の証なのかも。でも、やっぱり「ヨクナイ恋」もあるのだろう。


"ジュリエット"

 ある意味で楽曲のタイトルであるジュリエット。ジュリエットは「私」のことを指しているが、それに強く反発している。名著「ロミオとジュリエット」は

もうネタバレでもいいよね?

簡単にいって恋する二人が政争に巻き込まれ愛半ばでどっちも死ぬ話だ。シェイクスピアの4大悲劇に数えられる傑作だが、この楽曲ではその登場人物を象徴的に捉えている。ここで言うジュリエットは愛を成就できない「悲劇のヒロイン」の象徴として使っているのだろう。そして「悲劇のヒロイン」の中でも「ロミオ」という世間的によく知られた相手がいることも特徴である。とどのつまり、この楽曲でジュリエットを使った表現は簡単に言って「愛しのロミオ、私を悲劇のヒロインにしないで!ハッピーエンディングにして!」といったところだ。




"噛みつかないで 優しくして"、"噛みつくほどに 痛いほどに"

 Bメロに出てくる歌詞。1番ではあなたに向かって言っている。噛み付くような愛も存在するだろう。それは、とっても熱情的で攻撃的な愛だろう。でも、それを受け止められるほど、まだ"オトナ"じゃない私。だけど、本当の本当は、私からあなたを"噛みつくほどに"愛していた。それは歯車が「噛み合う」ようにギブアンドテイクとして成り立っていたのだろうか。

 ちなみにこの節は1番と2番で対称的な歌詞となっていて、「パパ」と「ママ」もリンクしている。

 ついでにおまけだが、2番のBメロ後半に「首輪」を握っている人が現れる。その直後に「ロミオ」が出てくるのでロミオと思うかもしれないが、持っているのは前半の歌詞に出てくる「パパ」だろう。きっと親の愛を「首輪」に喩えたのだろう。



"ピー"

 歌詞ではない。Bメロの最後のアレのことだ。なぜかよく話題に上がるのがこのピーに入る言葉はなんなのか?というもの。私としては別に自主規制でも何でもない楽器音として入れたのでは……と思うのだが、せっかくの機会だから考えてみたい。

 これは特に1番について言及される。「見せてあげる 私の……」の後に「ピー」がくる。まぁ、そういう類の言葉だろう。これは正解がないだろうから、適当に歌詞から考えてみる。パパとママに言及しているから、多分ここは私の部屋だろう。時間は、あなたが来ているのだから昼かな?とも思ったが「今夜はどこまでいけるの?」と言っているから夜なのだろうか。「素足をからめる」ということで、タイツとかハイソックス、靴下を脱いでいる。これも私の部屋説の後押しとなる。「噛みつかないで」をどう捉えるかだ。比喩だとしたら熱烈なキスなのかな?と思う。でも、本当に言葉通りだとしたら?噛むとしたら耳か乳首かな思う。後者だったらかなり"進んで"いる。これらから導き出すと……ちょっと具体的な名称を出すなら乳房か股間だろうか。まぁ、世の人の意見もそこいらなんじゃなかろうか。どっちかを選べと言われたら……うーん。2番に「黒いレースの〜越えたらどこまで」という歌詞がある。「黒いレース」が何を示すか分からないが、これを見ると、歌詞が時系列通りなら1番の時点では"最後"までしていなさそうである。だとしたら問題の「ピー」では(表現は違うかもしれないが)「乳房」が妥当かと思う。逆説的に「噛む」のは耳か、キスかになるのではなかろうか。

 もしここにメロディがあったとして私が詞を書くなら「私の全部」って書く。




"その前に助けに来てね"

 ここからぜ~んぶ推測だが、この楽曲の私は「愛情」に飢えているのだけれども、それは「肉体的な愛」とは違う「精神的な愛」であり、しかもそれは「内側へ向かって育む愛」ではなく「解放によって叶えられる愛」なのだろう。とてもピューバティで未成熟な愛情だ。本当にその刹那的な望みを叶えてくれるのは「私を連れ出してくれる愛」で、ただひたすらにそれを願う楽曲だと思うが、そこにはらむ不安定さや脆さには「私」は気付いていない。例えば「私を連れ出してくれる愛」を得るために「肉体的な愛」を差し出そうとするが、「あなた」にとって「肉体的な愛」はソレだけの意味であり、代償として「私を連れ出してくれる愛」を差し出すことはなさそうである。そしてこの楽曲で描かれていない枠外の妄想になるが、「私を連れ出してくれる愛」が成就したとして、そこから先に得るものは何なのであろうか?ただひたすらに、現状(パパ、ママ)から逃げたいという一心で「私を連れ出してくれる愛=ヒーロー」を求めるのだろうが「連れ出してもらうこと」が目標で、実は「ヒーロー」は誰でも良いのではなかろうか。連れ出された先で「ヒーロー」と「新しい愛情」を育むことが想像できているだろうか。そのあたりが思春期っぽい脆い愛情である。主人公が敵視する"オトナ"(パパ、ママ)が「内側へ向かって育む愛」を実現しているのに対して主人公は「おやすみなさい」と言っているのもその表れで、教科書的で道徳的な「内側へ向かって育む愛」には見向きもしていないのである。一方でパパが「あなたのこと嫌い」と言うが、そんな破滅的な将来を示唆しているのに大切な娘を「あなた」に差し出したくはないだろう。オトナとして「内側へ向かって育む愛」を見つけてほしいという願いがある。「私」は結局、自分は悲劇のヒロインで、そこから連れ出してくれるような「ロミオ」を求めているのだ。それは「助けに来てくれる」なら誰でも良いのかもしれない。刺激的で物語的な「ロマンチック」に囚われた未熟な女の子の「恋に恋する話」だろう。





 久しぶりに聴きました。こんなにじっくり聴いたのは初めてかもしれないです。まぁ他の曲についても大体そうですけどね。昔は"それなり"の聴き方をしていましたが、歳を重ねて正面から立ち向かうと発見が多くあり面白いですね。改めて思うのは、未熟なのにすごいセクシーですよね。