(最終更新:2024/2/1)

過去記事リニューアル中

 夏の歌といえばギラギラしたホットな歌もあれば、爽やかな風が吹くような歌もありますね。今回の《少年時代》は後者ですかね。なんだか残暑の中でも縁側で涼む感じがします。「夏が過ぎ」って歌詞から始まりますが、暦の上ではもう秋なのでちょうどいいなと思ってこの曲について考えてみます。

 

リリース:1990年9月21日

作詞:井上陽水

作曲:井上陽水・平井夏美

オリコン週間ランキング最高4位

(Wikipediaより)

 

 元々、荻野目洋子に提供される予定だったが、同時期に藤子不二雄A(正しくは◯にA)による映画『少年時代』の楽曲制作を依頼されたため、同作の主題歌として本楽曲が発表。井上陽水自身が歌った。

 

 

 楽曲形式は次の通り

intro-A-B-A-間奏-B-A-outro

 形式的には洋楽スタイル(Varse-Chorus)。定めるならばAがChorusでBがVerseだろう。

 

 

  イントロ

 

 イントロは下属和音から始まり、ピアノが主となる音楽。後半からストリングスが合流し、爽やかな印象を与える。コード進行は前半がIV-I-ii-Iでベースがiv-iii-ii-iと順次進行の下行形をとる。後半はIV-I-ii-V-Iと前半の和音進行に属和音を挟むため終止感がある。後半も含めてベースの下行が続くことで、音楽に落ち着きをもたらしている。

 

 

  Aメロ

 

 AメロはChorusに相当し、楽曲で最もメジャーな部分である。メロディは早い段階でフレーズの最高音まで跳躍し、続く音型は順次進行の下行形を取る。一気に注目を集め、落ち着いていく様子は花火のようである。その後は対象的に順次進行の上行形を取り、次のフレーズへと期待感を持たせる。始まりと同様のフレーズをもう一度繰り返した後に、Aメロ終盤のメロディでは順次進行で山型を描いたあと導音から主音に解決するので、心の揺らぎを表しながらもしっとりとした充足感を与える。

 コード進行は「花火のような部分」がI-V-III-viで進み、メジャーコードが続いた後、メロディの終わりがマイナーコードになるため切なさや寂しさを強く醸し出している。また、IIIは借用和音でありviに向けて強く緊張するため、より注目させられる。さらにベースがi-v-♯v-viとメロディに反して半音階的に上行するため、音楽が内側へと向かっている。一方それ以外はの部分はイントロのコード進行を基にした緊張感の少ない安定した進行で、先述の部分が際立つ。

 

 

  Bメロ

 

 BメロはVerseに相当し、全体10小節をメロディのリズムに着目して2+(2×3)+2に分けて考えられる。

 最初の2小節は短い音価+二分音符で構成されており、短い1文節ごとに長い音価が続くため、ため息をつくような感じを受ける。またAメロの花火のような部分とは対象的に、低い音に下がってから、上行するためコントラストがはっきりしている。

 続く2小節×3はフレーズ頭に付点四分音符が付くメロディが見られる。(ただし、3回目はアウフタクトがある)。この楽曲中では、歌詞のまとまりの途中に入る音価としては付点四分音符が最も長い。つまり、他の部分に比べて該当部分はかなり長く伸ばされているように感じる。特に一文字目が伸ばされることで、独特な間をもたらし含蓄ある響きを生み出している。

 最後の2小節はアウフタクトを含む八分音符を主体としたメロディである。歌詞の塊ごとに下行形が用いられているが、最後の音だけ上行する。伴奏ではメロディ同様にピアノが高い音から下行してくるため、気持ちの落ち着きを深めている。コードは、続くAメロに向けて属和音様に響くが、メロディはどちらかと言うと主和音上にあるような動きをする。つまるところIの和音の第二転回形といえる。そして、型式どおりにAメロに入る直前にピアノで属和音が鳴らされる。

 

 

  間奏

 

 間奏のはじめはイントロを基にハミングなどが合わさった音楽。

 続いてスネアドラムとオーボエが加わり、さらにコルネットも合流、楽曲中では壮大な音楽となる。ここの部分のコード進行は楽曲中では新しく登場するもので、ベースが半音階で下行していく。そのため独特な浮遊感を生み、かつ緊張感の少ない進行である。

 その後、マーチ(の中でもあくまでトリオ)のように音楽は進み、歌唱部分とはかなり対照的な活発な雰囲気を奏でている。まるで少年時代の真夏の昼間を表すようだ。ただ、コード進行はAメロと同じで楽曲としての同一性を保っている。

 

 

  アウトロ

 

 アウトロはイントロ、間奏と同様でハミングを含む音楽である。

 

 

 

  歌詞

 

 歌詞は決して長くないが、井上陽水と平井夏美の巧みな言葉選びによって額面以上に大きな空間が広がっている。音楽と合わせて、こちらもよく味わいたい。

 

夏が過ぎ 風あざみ

 有名な話だが「風あざみ」という言葉・花は存在せず、井上陽水の造語とされている。ここではその意味よりも響きを味わうのが良い。確実に言えることは夏が過ぎていることで、この物語は過去の夏のことを想っている。「風あざみ」は風が涼しく吹くような感じもするし、そういう秋咲きの植物が花開くようにも感じられる。存在しない言葉なのに、多重の意味を想像できるのは面白い。曲分析で「花火のような」といったメロディはまさしくこの歌詞の部分で、無情な儚さを含んだ幻のような言葉である。

 

 

夢はつまり 思い出のあとさき

 これも、非常に多くの解釈を生む言葉である。「あとさき」とは物事の過去と未来といった意味なので「夢とは思い出の過去や未来のことだ」という訳になる。だが、それではいかにも直訳すぎるというか、むしろ難解になってしまっている気がする。考え方を少し変えてみる。

 曲分析を参照いただきたいが、ここはBメロの最後である。メロディの特徴として八分音符を主体に言葉の塊ごとに下行形が用いられていることを挙げたが、その特徴から見て、歌詞は次のように分かれる。

夢はつまり/思い出の/あとさき

そして、フレーズの最後の1音は上行することも先述のとおりである。そうすると「夢はつまり」「思い出の」では下行形で落ち着きや冷静さ、場合によっては落ち込みを含んでいる。「あとさき」も下行するが最後の1音は上行するため、一般的な解釈では明るさや立ち直り、場合によっては疑問などを表すだろう。

 ただ、この部分のもう一つの特徴として主和音の第二転回形上にメロディが置かれていることが挙げられる。和声では主和音の第二転回形は原則として属和音に進行する大きなドミナントでありもちろん終止ではない。この不安定な和音上にあるメロディもまた不安定であることは想像に容易い。さらに、「あとさき」の音程はv-iii-ii-iiiで、最後上行することによって主音への旋律的な解決を避けている。これによって明るさとか疑問とかではなく、こちらもまた不安定で靄へ消え入るような雰囲気を生み出している。

 これらがもたらす効果は不安定で霞がかった幻想的な情景を想像させる。それを考慮した上で「夢はつまり 思い出のあとさき」というのは明確な意味に裏付けされたものではなく、まさしく夢のように淡く消え去る思い出の幻影を見ているような歌詞だと考えられる。

 

 

私の心は夏模様

 Aメロの最後の歌詞である。夏が過ぎても夢花火の袂でも、いつまでも私の心は夏模様のまま。風あざみでも、夏祭りの宵かがりでも、いつまでも私の心は夏模様のまま。そして、青空に残された私の心は夏模様のまま。この楽曲は全てこの言葉に帰結する。かなり抽象的な淡い表現で描かれている歌詞の中で、「私の心は夏模様」という歌詞はその情景同様、真夏の青空のように眩しく目に映る。最後のこの歌詞までもがこれ以上淡い表現で描かれていたら、この楽曲の広がりはここまでではなかったかもしれない。それでいて、あまりにも直截的すぎない、この楽曲にふさわしい言葉選びであることは脱帽である。

 

 

 高校の音楽の授業でやりました。楽譜が読めた私は音符の並びを見て、なんてシンプルなのに心惹かれる音楽なんだ!と感動した覚えがあります。今みたいに頭でっかちではなかったあの時代も懐かしいです。