また1年も放置してしまった。
3日坊主にも程があるし、ましてや1年。
むしろ1年越しにも関わらず、気分的にはこんなにスムーズに復活できるこの現象に何らかの名称を付けたいくらいだけど、まずは1年という時間の速さに驚愕する。
年々、時間経過の体感が早くなってるけど、これには理由があるんだって。
もはや有名な話かもしれないけど、子どもの頃は出会うもの、体験するもののいちいちが初めてのことが多いから、何をするにしても時間がかかってしまうため体感としては長く感じるけど、
大人になるにつれて初めましての出来事が少なくなっていくことで、こなす という目線から体感が短くなるらしい。体験と記憶が積み重なることで、似たような出来事なんかは脳が変換して早く過ぎていく、とかそういう感じだったかな。
確かに、朝の身支度なんて、もはや自我が芽生えて四半世紀を超えるだけの朝を超えて、その分の身支度をしてきたわけだから悩むことなんて何もないけど、子どもの頃は少し違ったんだね。
学校の授業の1時間も、テスト終了前の5分間もすごく長く感じたし、通常5分の休み時間のところ、大休み(僕の地元ではそう呼んでた)の20分はどんな遊びでもできるくらい長く感じたし、1週間後の友達との約束も手が届かない程遠い時間に感じた。
これらの例は別に何かに悩んでたわけじゃないし、当時は何度となく遭遇してた場面だろうけど、単純に時間の経過を遅く感じてたのはなぜだろう。
ちなみに見聞きする時間に対しての感覚としても、付き合ってどのくらい?という会話で半年も付き合ってるなんてカップルがいたら、もう結婚じゃん!と思うほどのベテランカップルに見えてたし、早ければ付き合って1週間ほどでフラれたりしていた自分が、その1週間後には別の子を少し気になり始めてる時も、1週間空けばまぁ良いか、という感覚だったりもした。
ここまで書いて思ったのは、子どもの頃に時間が長く感じてたのは、やっぱり初めましての出来事が多いっていうことだけが要因なんじゃないのではないか、ということ。
決して1週間で別の子に乗り換えた自分を肯定したいわけじゃない。
電車から眺める風景が分かりやすい気がする。
通りすぎる電柱やビル、家々の窓、外を歩く人など、対象を見つけたら目で追って見てみると、意外と長い時間視界に入れることができる。そして例えば外にいる人を対象にしたとすれば、着ている服の色程度なら把握できるくらいの時間があることに気付く。
つまりはそういうことなのではないか。
何が言いたいかと言うと、子どもの頃は出会う物事ひとつひとつを対象に定めて、しっかり見ていた。自分の後ろに通り過ぎて完全に見えなくなるまで。
それが大人になると、責任ややることなど、必要以上にタスクが増え過ぎて、対象になり得る物事はどんどん目の前には現れるものの、自分の後ろに通り過ぎるまで追いかけるほどの余裕もなく、気付けばまたすぐ新たな何かが目の前に現れては消えるのを繰り返す。
つまり、視線を置く対象にできているものが子どもの頃よりも圧倒的に少ない。
後編へ続く
何かが擦り減っていく感覚っていうのは大人になればなるほど増えていくと思う。
人間関係、仕事、色んな差別やいじめ、今のこの世の中、空気感、他者の目 などなど。
子どもの頃の出来事が今なお心の重しになることだってあるかもしれない。
潤滑油がなくなってきた心の歯車は、ギシギシと摩擦を大きくしながら回転していく。
風化するのに必要な時間と、再生するために必要な時間は決して同じじゃない。















