つまづいたって いいじゃないか にんげんだもの | 大切な人・子供さんを亡くした方の 心を癒す スピリチュアル・グリーフケア★ YOUのブログ ★

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「死後の世界」は存在し、大切な方は今も生きています
この真実がスピリチュアルグリーフケアの基本的な思考です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悲しみを乗り越えたとき

 

深みのある

 

思考・言葉・行動に繋がっていく

 

そして人を感動させる力が宿ると思う

 

 

人の人生を想像力で感じる

 

魂に響く 涙が流れてくる

 

その涙を流せる自分がありがたいと思う

 

 

 

 

相田みつお氏のヒストリーです

 

~注意~

涙を拭きとるテッシュをご用意ください

 

 

 

相田みつをは、1924年5月20日

栃木県足利市で生まれた

 

6人兄弟の3男であり、

相田は次兄・幸夫(ゆきお)をよく慕っていた

 

相田がまだ3、4歳の頃、

小学生の幸夫がよく紙芝居を見に

連れ出してくれた。

その際、家が貧乏で飴を買わずに

遠くからタダで見ていた為、

あるとき幸夫が紙芝居屋に襟首を掴まれ

引きずり出され、皆が見ている前でぶん殴られた

兄一人なら逃げることができたが、

幼い弟がいるため捕まったのだ

 

幸夫は殴られても泣かずにじっと弟を見つめ、

紙芝居屋は「強情なヤツめ」と何度も殴った

(『歯をくいしばってがまんをしたんだよ 

泣くにも泣けなかったんだよ 

弟のわたしがいっしょだったから』)

 

 

 

そんな優しい兄たちの人生を戦争が狂わせた

 

 

 

1937年、13歳のときに日中戦争が勃発し、

最初に幸夫が兵隊にとられた

 

1941年8月(17歳)、相田家に悲痛な電報が届く

「相田幸夫殿、山西省の戦闘において、

左胸部貫通銃創を受け、名誉の戦死」

弔問客が帰った後、

母は幸夫の遺影に向かって叫んだ

「幸夫、なんで死んだ、

勲章も名誉も母ちゃんはいらない、

おまえさえ生きて帰ればなんにもいらない、

ユキオ!!ユキオ!!ユキオー!!」。

 

 

 

その後、幸夫の死を看取った

戦友Tから手紙が届く。

幸夫は撃たれた後2時間ほど生きており

しきりに故郷の親兄弟を心配していた

「死んでゆく自分はいいけれども、

両親や弟妹たちの嘆き悲しむ様を

想うとそのことが一番つらい」

 

 

 

そして戦友Tは“読んだら必ず焼却して欲しい”

と断った後、兄の最期の言葉を記した

「戦争というものは人間の作る最大の罪悪だなぁ」

 

 

 

兄・武雄が兵隊にとられ、

1944年5月「ビルマにて戦死」と

訃報が届いた(当時、ビルマでは

『インパール作戦』の最中

当作戦の日本軍死傷者は5万以上

死者は大半が餓死

武雄もこの作戦で犠牲に)

 

母は2人の子どもを奪われて

気も狂わんばかりになり、85歳で没した際も、

臨終前に「武雄!幸夫!」と叫び続けていた

 

 

 

相田は兄たちを失った後、

何か困ったことがあると墓参りに行き

「あんちゃんなぁ、

どっちの道選んだらいいかなぁ」と

石塔と相談するようになった。

 

「私は何かに迷うと、もし、

あんちゃんたちが生きていたら、

自分がどういう生き方をすれば

喜んでくれるだろうかと考えるんです

そして、いつでも、あんちゃんたちが

喜ぶ方の道を選ぶんです。

私は今日まで、あんちゃんたちに守られて、

こういう人生を生かしてもらってきたのです」

 

 

 

 

 

 

相田みつを『三人分』より~

 

「三人分の力で頑張れば 

どんな苦しみにも耐えられるはずだ 

三人分の力でふんばれば 

どんなに険しい坂道でも 

越えられるはずだ 三人分の力を合わせれば 

どんなに激しい波風でも 

何とか乗り切れるはずだ 

そして 三人分の力を合わせれば 

少なくとも 人並みぐらいの仕事は 

できるはずだ たとえ私の力は弱くとも…」

「三人分とは 一人はもちろんこの自分 

気の小さい 力の弱い だらしのない 私のこと 

あとの二人は 戦争で死んだ二人の兄たちのこと 

豊かな才能と体力に恵まれながら 

戦争のために 若くして死んで行った 

二人のあんちゃんのこと 

学問への志を果たすこともなく 

人並みの恋の花すらさかすことなく 

青春の固い蕾(つぼみ)のままで死んでいった 

二人のあんちゃんのことです 

わたしの仕事は 

いつもこの二人のあんちゃんといっしょ 

だからわたしの仕事は 三人で一ツです」。

 

 

相田は書道教室を開いていたが、

妻と2人の子を抱えて生活費が足りず、

“ろうけつ染め”を学んで風呂敷や

暖簾を制作したり、

地元商店から包装紙デザインの注文を

とるなどしてギリギリの生活を送っていた

 

「私は、誰とも競争しない生き方をしたかった

私の学んだ禅の教えは、勝ち負け、

損得を越えた世界を生きることにあったからだ」

「不思議なもので真剣に歩き続けていると、

いつかは仕事をくれる人にめぐり逢える

世の中はそういうもんです」

 

 

 

 

1960年12月

相田は『私がこの世に生まれてきたのは、

私でなければできない仕事が何か一つ

この世にあるからなのだ

それが社会的に高いか低いか

そんなことは問題ではない

その仕事が何であるかを見つけ、

そのために精一杯の魂を打ち込んでゆくところに

人間として生まれてきた意義と

生きてゆく喜びがあるのだ』と書く。

男36歳、覚悟の言葉だ。

 

 

 

1991年、自転車を避けようとして

転倒し足を骨折、

さらに脳内出血を起こして

12月17日に足利市内の病院で急逝した

享年67

 

 

 

 

『自分の番 いのちのバトン』相田みつを

父と母で二人
父と母の両親で四人
そのまた両親で八人
こうしてかぞえてゆくと
十代前で千二十四人
二十代前では---?
なんと百万人を越すんです


過去無量の
いのちのバトンを受けついで
いまここに
自分の番を生きている
それが
あなたのいのちです
それがわたしの
いのちです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

深く知ることで

 

見え方が違ってくる

 

深く感じることで

 

気づくことがある

 

あなたはどこまで深く知っていますか?

 

 

 

 

心に響く想い・・

 

どうぞ優しく届きますように

 

お祈りします

 

 

 

YOU