昨日、またまたA子と、そして、A子がひさしぶりにY香を連れてきてくれて

自由が丘で、ひさしぶりに3人でご飯を食べた。


そのときに、A子が誕生日に彼氏からもらった贈り物の話で盛り上がったので、

今日は、贈るということについて、書きたくなった。


私は、いつも思っていることがある。


モノを贈ることに対してセンスのある人は、

生き方やすべてにおいて、センスのある人だと。



これは、周囲の男性には、よくアドバイスしていることなんだけど、


たとえば、会社や仕事関係者に何か手土産を持っていく時。


それが、たとえ、男性に贈る場合でも、ご自宅に持って帰ってもらう場合、

家族の女性が…つまり、奥様が喜びそうなモノを贈る、

また、

社内の場合、その男性の周囲にいる女性の人数や雰囲気を把握して

やはり、その男性本人でなく、彼女たちが喜びそうなモノを、さりげなく贈れると

人としての評価がうんと高くなり、後に、社内の評判にも繋がると

オススメしている。



私は、人によくモノを贈る。あ、決して、高いものじゃないけど…。


アタマの中のリストを駆使し、

これ、美味しい~と思ったり、街で、あ、いいなと思ったものに出逢ったときは、

そのときに買って、次回会うときに相手に渡したり

これを好きだと言っていたなと思うと、待ち合わせ前に買って渡したり…


そんなサプライズは、とっても喜んでくれるし、

さりげなく「明日のおやつにでも食べて~」と言って渡すと、

相手に対しても押し付けがましくない。


そう、考えると、時々、ふと思う。

お誕生日のプレゼントって、すごく形式的な感じがしない??


その日という、期限が決まっているせいか、

何かしら、ゼッタイあげなくちゃいけないという観念が強くなるためか、

イイものに出会うかといえば、そうでもないときが大半である。


プレゼントは、値段に関係なく、質の良いモノを贈りたい。

ちゃんと、その人に合った、こだわったモノを贈りたい。


なので、ぶっちゃけ、誕生日に
「コノ人には、これぞ~、これしかない!!」というものに出会えなければ

無理して贈ることはないと、実は思ったりしている。


むしろ、誕生日には、気持ちのこもったメッセージと、

とびっきり美味しいお料理でもてなした”至福の時間”や

旅などの”上質な空間”を贈られると嬉しかったりするのではないだろうか。


そういう時間や空間だと、贈った相手もまた、

お互いが、楽しめるという利点もついてくるし。


そういう部分で、共にセンス良く過ごせるのが

「特別な日」の醍醐味のような気もするのである。


誕生日と言えば、

自分の小さい頃の誕生日で、私は母から、ひとつ学んだことがある。


母は、必ず、私のお友達を5~6人呼んで

毎年、お誕生日会を開いてくれた。

母の手料理とケーキ、私は、ややお姫様チックに身を包み、

そして、母が最もこだわったのは

来てくれたみんなに贈る「お返しの品」だった。


私の誕生日にわざわざ来てくれるのだから、と

一週間前には、母と二人で、デパートに買い物に行って

ひとつひとつの品にリボンをかけてもらい、

毎年、当日、みんなに贈ったことを、今でもずっと覚えている。


そういう感覚は、なんと、オトナになった今でも、

私の中に、ちゃんと残っていて

(母もまた、今でもそういうことを、欠かさない。)

ごくたまに、友人が誕生日会を開いてくれる…という、ありがたいお話になると

真っ先に、私は”お返しの品”を考えてしまう。


2年前には、上質でデザインも良かったと理由で

ひとりひとりに、エルメスのタオルをお返しに贈ったら

私が、お誕生日に頂いた、それぞれのプレゼントよりも、

はるかに、私のお返しの品のほうが高額だった、という

エピソードを作ってしまった。

でも、みんなすごく喜んでくれたから、良かったけど。


こういう考えが普通にある私だから、

どなたかのお誕生日会に参加させていただいて、一番驚くのは、

たくさんの人にお祝いされるご本人…

その人は、さぞかし、お返しの品か、または、それぞれの誕生日のお祝いとか

大変だろうな、と、お気持ちをお察ししたこともあったのに、


あらら。自分がお祝いされるだけしてもらって…


ま、いいや。この話はやめておこう。



お誕生日といえば、もうひとつ。

10年以上も前から、静かに大切に頂いているお決まりがある。

それは、毎年、一年に一度、欠かさず、

私のお誕生日に必ず、贈ってくれるメッセージ。

私の元上司からである。


普段は、連絡を取り合うこともないし、長らく会っていないけれど

それは、時にお手紙だったり、電話だったり、

最近では、めっきりメールとなってしまったのだけど…。


冒頭の言葉は、いつも決まって、このような言葉から始まる。


「今年も、こんなふうにyottyのお誕生日のお祝いができることを

心から嬉しく思います…。」


充分に長く書かれた内容の最後は、

「より素敵に、輝く女性となってください。」

と閉められている。


その前途を祝福してくれるメッセージを毎年毎年読むたびに、

自分自身の成長も、また自分で感じられる。


ある年は、それがやけに素直に受け取れなかったり、

ある年は、それが何よりも心に響く言葉だったり、


今年は、どんな言葉を頂けるのだろうか。

自分の心境と照らし合わせてみたくて、今からワクワクしているのである。



やっぱり、そう考えてみると

最近の世の中にありがちな、

「誕生日に、ただ何でもいいから、とにかく無難にあげる」…こと

に対して、意味があるのかと思うと、ちょっぴりギモンでもある。

そして、そんな状態に、世間は執着しすぎているような気がして。


お祝いされる側も、

いつも「もらうだけが当たり前」と思うのも、チョット待って~って感じ。

金額やモノの量は、何かを計るバロメーターとは言えない。


誕生日。

それは、必ずしも、プレゼントを贈る最良のタイミングとは思わない。


街を歩いていて、ある品物を見つけたとき

即座にその人の顔が浮かんで、これをぜひアノ人に!!と

千載一遇の出会いをしたとき、それこそが最良のタイミング、

お贈りしたい相手と「贈り物」との仲介、

それこそが、”運命の贈り時”になるのだと思う。


それでも。

どうしても、”誕生日にモノ”という考えに執着するなら

こんな考え方は、どうでしょう??


以前、脚本家の橋田寿賀子センセイが、泉ピン子さんに対して

自分の誕生日に、スペインのリヤドロの置物をプレゼントしていた。


橋田センセイは、こう言った。


「自分の誕生日だからこそ、誰かに贈り物をしたいのよ。」


大物の感覚は、やっぱりブラボー!!!なのである。